原田マハ・トークショー ピカソの真実『暗幕のゲルニカ』刊行記念

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原田マハさん

 二十代の頃から「いつかピカソをものにしたい」と恋焦がれてきた原田さん。新作はまさに満を持して世に問う、手に汗握るアートサスペンスです。「ピカソは人生のライバルであり、導師」と言い切る作家が、名画「ゲルニカ」に秘められた巨匠の謎と思いに迫ります。

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人生を変えたピカソ

 こんばんは、原田マハです。小説家としてデビューしてちょうど十年目になる今年、『暗幕のゲルニカ』という長篇小説を発表しました。今日はその作品の創作の背景について、お話させていただきます。

 皆さんご存じのように、「ゲルニカ」は二〇世紀の巨人パブロ・ピカソが一九三七年に制作した、縦350㎝、横780㎝というとても巨大な絵です。ピカソは一九七三年に九十一歳で亡くなるまでに約十五万点といわれる膨大な数の作品を残しましたが、私は子どもの頃からピカソが大好きで、自分の人生は彼によって運命づけられたとさえ思っています。

 最初の出会いは一九七二年、十歳の夏です。実は父親が美術全集のセールスマンだったため、幼い頃から絵に親しみ、描くことも得意でした。その夏、岡山に単身赴任していた父が「お前が好きそうな、いい美術館がある」と言って大原美術館に連れて行ってくれました。興奮して観て回っているうちに、ある作品の前で雷に打たれたような衝撃を受けたのですが、それがピカソの「鳥籠」でした。なぜ驚いたかというと、「これが鳥籠? めっちゃ下手くそ」と思ったからなんです(笑)。これなら私の方がうまいと思って、ピカソを何となくライバル視するようになりました。生意気な子どもでしたね(笑)。翌年、ピカソが死んだときのこともよく覚えています。朝、寝ている私の部屋の襖を父が開けて一言、「ピカソが死んだぞ」。すぐにテレビのニュースを見ましたが、衝撃を受けましたね。これから誰を目標にすればいいのだろうと悲嘆にくれました。例えて言うと、「あしたのジョー」で力石が死んだ瞬間のジョーのような感じでしょうか(笑)。

 それからしばらく、ピカソのことは頭から離れてしまったのですが、二十一歳の時に京都で大規模な「ピカソ展」が開かれました。私は関西の大学に通っていて、自分の誕生日の記念にその展覧会を見に行ったところ、また一枚の絵に打ちのめされたんです。今度は「何これ、うまいじゃない。この人は天才だ」って。遅すぎますけどね(笑)。それが一九〇三年、二十二歳の時に描かれた「人生」という作品で、その時からピカソは私にとってライバルから導師(マスター)に変わりました。いつか私も何かを表現する人間になりたい。そして、もし表現することができるようになったら、もちろん足元にも及ぶわけがないけれど、ピカソを自分の創作の中に取り入れてみたい。そんなことを考えるようになったんです。

 その頃、同様に影響を受けたのが『楽園のカンヴァス』という作品で取り上げたアンリ・ルソーで、初めて画集を見た時に面白くて心が躍ったのを覚えています。以来、ピカソとルソーの二人を表現に活かしたいという思いは今に至るまでずっと持ち続けてきました。『楽園のカンヴァス』にはピカソも登場しており、読者の方からは「いい男に描かれている」と好評でしたが、それは私が思い描く理想のピカソ像を書いたからです。実際より五割増し程度いい男に書いたつもりですが(笑)、そう書きたくなるほど大好きで、ピカソを追いかけて生きてきたと言っても過言ではないと思います。

「ゲルニカ」が歩んだ道

 ピカソの生涯をたどってみると、二つの大きな転機があったように思います。一度目が一九〇七年に「アヴィニョンの娘たち」を描いたときで、以後ピカソは大きな変貌を遂げます。「本当に美しいものは、相当な醜さの上に成立している」という逆説的なテーゼを世の中に投げかけた一作ですが、ピカソは様々なアーティストや作品、そして時代背景から影響を受けながら、美の概念を一気に変えようと挑んだのではないかと思います。時は二〇世紀初頭、すべてが新しく変わっていく時代で芸術家たちも野心に燃えていましたが、中でもピカソは変革を恐れず、新しい表現に挑戦していった人ではなかったでしょうか。

 二度目のターニングポイントが訪れるのが一九三七年、「ゲルニカ」が誕生した年です。スペイン内戦が激化したこの年の四月二六日、北部の小さな村ゲルニカを反乱軍と手を組んだナチスドイツが空爆し、近現代史の中で初めて一般市民が戦争に巻き込まれます。ある意味でテロリズムの始まりと言ってもいいかもしれません。翌日、新聞で事件を知ったピカソは怒りに燃えて、猛然と絵筆を執ります。五月末からパリで万博が開催される予定になっており、ピカソはスペインのパビリオンに展示する絵を依頼されていたのですが、そのために用意されたカンヴァスに向って描き続けました。そして、一か月ほどで描き上げたのが「ゲルニカ」です。

 今回の本のカバーにも使わせてもらいましたが、モノクロームの画面の中に様々なアイコンが鏤められています。倒れ伏す兵士、死んだ子供を抱えて泣き叫ぶ母親、驚いて振り返る牡牛、咆哮する馬……そして目のようにも見える何か。これは神の眼と言われたり、空中で炸裂する爆弾の光と言われたり、様々に解釈されています。そしてこの絵の凄さは、間違いなく空爆による殺戮を描いているのに一滴の血も流れていないところにあります。飛行機も戦車も描かれていませんが、明確に戦争の絵なんです。驚くべき作品だと思います。

「ゲルニカ」がパリ万博のスペイン館で展示されている最中に、ナチスの将校が見に来たそうです。その時たまたまピカソが絵の前にいて、一触即発の状況になったと伝えられています。「この絵を描いたのは貴様か」と尋ねるナチス将校に向ってピカソはこう言い返します。「いいや。あんたたちだ」。半ば作り話とも言われているエピソードですが、聞いたときは私のピカソ愛がめらめらと再燃しました(笑)。

 その後、ナチスや反乱軍のフランコ将軍の標的になることを危惧したピカソは、「ゲルニカ」をスペインに戻すことを拒みます。そして一旦、自分のアトリエに引き取った後、ヨーロッパ各国を巡回させてから、アメリカ合衆国に“疎開”させることを決めます。その時、海を渡ってピカソに会いに来たのがニューヨーク近代美術館(MoMA)の初代館長、アルフレッド・バー・ジュニアです。バーは「ゲルニカ」を借りる代償として全米を巡回するピカソ回顧展を催しました。巡回が終わった後、ピカソはバーに向って「ゲルニカはMoMAで守ってほしい。そしてスペインに真の民主主義が戻ったら返してください」と言い、バーはその約束を果たします。最終的にスペインに戻ってきたのは一九八〇年代のことでした。ですから、結果的にピカソは自分のアトリエを出た「ゲルニカ」に再会することなく亡くなってしまうのです。

暗幕はなぜかけられたのか

「ゲルニカ」が制作されたプロセスは、一人の女性によって詳細に記録されています。ドラ・マールという名前のシュールレアリスムのアーティストで、当時は珍しい女性写真家でもありました。彼女は大変な美貌の持ち主で、しかも奔放な性格で自己主張も激しい、新しいタイプの女性だったと伝えられています。

 ピカソとはパリのドゥ・マゴというカフェで知り合い、やがて恋に落ちます。ドラは当時二十代後半で独身でしたが、ピカソには正妻オルガ・コクローヴァがいました。しかもマリー=テレーズという若い愛人もいて、子どもまで生ませているのに、さらにドラとも関係を持つのですから相当悪い男ですよね。マリー=テレーズとドラはある日、ピカソのアトリエで鉢合わせします。そして互いに罵り合い、髪の毛を掴んで喧嘩を始めるのですが、ピカソはその様子を傍でニヤニヤ笑いながら見ていたそうです。挙句の果てに泣き喚く女たちを絵に描いてしまうのですから、失礼で嫌な男ですね(笑)。でも、哀しいかなその絵「泣く女」は、激しく感情を爆発させる女性を描いた名作と評されています。

 そのドラ・マールは「ゲルニカ」を描き始めた瞬間に居合わせ、その後の制作過程をすべてカメラに収めました。これは大変な功績です。そのおかげで後世の研究者たちはピカソという芸術家がいかに作品を描くのかという、いわば神秘の領域を垣間見ることができるのですから。しかもその作品が「ゲルニカ」でしたので、人類の財産となる貴重なアーカイブを残してくれたと言えると思います。

 今回の小説では、私は二人の女性の視点で「ゲルニカ」をめぐる物語を書いてみました。その一人がこのドラ・マールで、彼女が主人公のパートでは一九三七年から四五年までのパリを舞台に、「ゲルニカ」が誕生してやがてアメリカに亡命していく様子が描かれています。もう一人は八神瑤子というMoMAに勤務する日本人のキュレーターで、架空の人物です。彼女はニューヨークの国連本部にあった「ゲルニカ」のタペストリーがある日、忽然と姿を消した謎を追跡するという役回りです。二〇〇三年、アメリカがイラクを空爆する前夜にパウエル国務長官(当時)が国連で記者会見を行った際、安全保障理事会議場のロビーに飾られていたタペストリーに、なぜか暗幕がかけられるという事件が起こりました。私はその事実を知った時、心が震えるのを覚えました。なぜならそれは制作から約七十年たった現在でも、「ゲルニカ」が国家が恐れるほどのメッセージを発し続けていることを示しているのですから。そこから「暗幕のゲルニカ」プロジェクトはスタートしたのです。

 若い頃に「ゲルニカ」の誕生と変遷の物語を知って以来、いつかは小説として描きたいと思い続けてきました。十年間小説家としての修業を積み重ねて、ようやく書き上げて出版に漕ぎつけることができました。長い間の片思いが実ったような気がしています。巻末に取材協力者の一覧が掲載されていますが、この小説を書くにあたり、まずニューヨークの国連本部を取材しました。それからマドリッドに飛んでプラド美術館に行き、レイナ・ソフィア芸術センターで「ゲルニカ」の実物を見て、コンサバターにも話を聞きました。さらにマラガ、ゲルニカ、バルセロナを訪れ、最後はパリを経由して帰ってきました。約一カ月に及ぶ大ツアーでしたが、その間たったひとつの質問をお会いした関係者全員に尋ねました。いったい「ゲルニカ」は誰のものなんですか、と。皆さんからいただいた答えは作品の中に書き入れてあります。お読みいただく際にそのことを心に留めていただけたら、嬉しく思います。

 (二〇一六年四月五日 神楽坂 la kaguにて)

新潮社 波
2016年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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