ミステリマンガと職業マンガ、両方の顔を持つ“水と癒し”の物語『水の箱庭』安堂維子里|中野晴行の「まんがのソムリエ」第5回

中野晴行の「まんがのソムリエ」

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水槽の中につくる、自分の世界
『水の箱庭』安堂維子里

 ストレスの多い毎日。「くつろげる癒しの空間がほしい」と考えている人も多いはず。でも、言葉にして「癒し」と言うのは簡単だけど、何が「癒し」になるのかは十人十色。「これぞ癒し」という定番みたいなものがあるかといえば、ない。そう簡単にはいかないのだ。そこで今回は、「癒しの空間」のヒントになりそうなマンガをご紹介しよう。
 安藤維子里の『水の箱庭』である。

 ***

 主人公の朝霧水紀は熱帯魚専門店「アクアイット」で働くアクアリスト。働き始めて2年になるが、まだまだ駆け出しである。
 実を言えば、このマンガを読むまではアクアリストという職業があることを知らなかった。熱帯魚専門店はわが家の近所にもあるし、こう見えても、小学校の頃には熱帯魚の飼育にこったことがあるのだ。熱帯魚や海水魚を扱う店があることはわかっていたが、そこにアクアリストという専門職がいることが初耳だったのである。
 アクアリストは水槽の中に魚や水草が暮らす人工の環境(アクアリウム)を作るのが仕事。個人からの依頼でリビングや書斎に設置する水槽の世界をデザインして、定期的にメンテナンスすることもあるし、商業施設などに設置する水槽をデザインしてつくりあげることもある。駅のコンコースなどで見かける、カラフルな熱帯の魚たちが泳ぐ水槽もアクアリストの作品だ。
 とは言え、「アクアリストに頼めば、手軽に癒しの空間が手に入るのだな」と早合点してもらっては困る。

 水紀をこの仕事に導いたのは、17年前に行方不明になった兄の存在。大学受験に失敗して引きこもり状態だった兄は、自分の部屋を水槽で埋め尽くして、アクアリウムをつくっていたのだ。兄は、自分の住む世界を自分で造ろうとしていた。
 自宅を全焼させた不審火に紛れて姿を消してしまった兄。しかし、水紀はいつか必ず再会できると信じていた。大学を出た彼女が、アクアリストとして働き始めたのも、兄へのあこがれと、この仕事を続けていれば兄と会えるという確信、そして自分の手で世界を創る夢があったからだ。
 若きアクアリスト・水紀の成長を描く職業マンガと、消えた兄の謎を追うミステリマンガという二つの側面を持ちながら物語は展開していく。そして、水紀とクライアントや生き物たちとの交流の中で描かれているのが、「癒される空間ってなんだろう」というテーマだ。

 クライアントの「見ていて癒される水槽」という依頼で、森林浴をイメージした水槽をデザインした水紀。それは、土砂崩れのために住み慣れた集落を離れ、都会で暮らす娘の家に引き取られたおばあさんの寝室に置くためのものだった。避難所で足を悪くしたおばあさんは寝たきりになっていた。
 メンテナンスのために部屋を訪れた水紀と故郷のことなどを話すうちに、おばあさんはこんなことを言いだした。
「こんなきれいな魚たちがガラスの箱に閉じ込められているようで ちょっぴり可哀想だねえ……」
 そして、モーターの音が気になる、というおばあさんの頼みで、水槽は娘たちのリビングに移されることになってしまった。依頼された水槽がつくれなかったことを悔やんだ水紀は、かつておばあさんが住んでいた場所をたずねて……。

 こんなエピソードもある。同棲中のカップルが小さな水槽でハコフグを飼い始める。ところが彼氏が勝手に同じ水槽でほかの魚を飼い始めたために、ストレスが溜まったハコフグは……。
 ときおり店にやってくる少年の話も。飼っているオカヤドカリのために新しい家として巻貝を買って帰ったのだが、一度は新しい家に入ってもすぐに元の家に戻ってしまう。ちょうどそのとき、家族で高級ホテルで一泊というプレゼントに当選し、豪華な部屋で一泊した彼は、オカヤドカリの気持ちがようやく理解できた。豪華すぎたり、広すぎたりではどうにも落ち着かないのだ。
 奥さんを亡くしてゴミ屋敷でアロワナと暮らす男性も登場する。アロワナの様子がおかしいことに気づいた男性が相談すると、水紀は広い水槽に移せば良くなる、とアドバイスする。男性は大きな水槽を部屋に入れるために、ゴミ屋敷の片付けを始める。

 ストレスがない、というのが癒しの基本なのかもしれない。それは人も魚も同じことだ。
 このマンガ、単行本2冊で完結している。残念だけど、この長さも心地いい。兄と妹のすれ違いを織り込みながらエピソードを積み重ねていけば、10巻以上になるだろう。それだけの力量のある作家さんだということもわかる。それをこの長さに収めて、きちんと完結させた。気持ちよくまとめられた作品である。

中野晴行(なかの・はるゆき)

1954年生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 7年間の銀行員生活の後、大阪で個人事務所を設立、フリーの編集者・ライターとなる。 1997年より仕事場を東京に移す。
著書に『手塚治虫と路地裏のマンガたち』『球団消滅』『謎のマンガ家・酒井七馬伝』、編著に『ブラックジャック語録』など。 2004年に『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞を、2008年には『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で第37回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
近著『まんが王国の興亡―なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか―』 は、自身初の電子書籍として出版。

eBook Japan
2016年8月31日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

イーブックイニシアティブジャパン

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