3誌で新人賞発表! それぞれの「理」のあり方を読む
[レビュアー] 小山太一(英文学者・翻訳家)
10月の文芸誌では、すばる文学賞・新潮新人賞・文藝賞(発行順)と、小説の新人賞が3つ並んだ。
文藝賞の選評では、選考委員の斎藤美奈子が受賞作を「難病モノ」と呼んで否定的に評価し、小説では「どう書くか」と同時に「何を書くか」も大事だ、と述べている。これは斎藤には珍しい錯覚だと思う。
「難病モノ」をよくある「難病モノ」たらしめているのは、病気を都合のよい仕掛けとして扱う安易な態度ではないのか。だとすれば、問題は「何を書くか」(難病という題材)ではなく、まさに「どう書くか」に帰着するはずなのだが、違うだろうか?
受賞作のうち「どう書くか」に関連して興味深かったのは、春見朔子「そういう生き物」(すばる)および鴻池留衣「二人組み」(新潮)の2点。いずれの作品も「どう書くか」のさまざまな問題を孕んでいるが、ここでは「理(り)を求める」という手続きに話を絞りたい。
「そういう生き物」は、ふとしたきっかけで同居することになったかつての同級生・千景(ちかげ)とまゆ子をめぐる物語。千景はクールな薬剤師、まゆ子は一見ハイテンションなスナック従業員という違いはあるが、二人に共通するのは、それぞれの語りの声が自分たちの不思議な関係の「理」を捉えようともがくところだ。
もちろん人生はなかなか理に収まらないし、つまるところ「そういう(生き)物」としか言いようがなかったりする。語り手たちは理を投げ出すことなく模索しつづけるが、人生はやはり理から逃れてゆく。その運動性が、小説に活気を与えている。
「二人組み」の視点人物である男子中学生の「理」への欲求は、より露骨だ。同級の頭の弱そうな女子に対して教育者かつ性的搾取者として振る舞いつつ、いやはや自分にも他人にも理屈をつけることつけること。そのねちっこい小心さの描き方がうまい。結末で勢い余って理に落ちかけるのは、いかにも惜しいが。
小説以外では、『文學界』の映画特集が豪華。とりわけ「893(ハチキュウサン)愚連隊」「日本春歌考」の俳優・荒木一郎のインタビューが出色だ。