生きるために戦え――人生を見つめ直させる1冊『ヒューマニタス』|中野晴行の「まんがのソムリエ」第20回

中野晴行の「まんがのソムリエ」

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自分と戦うことの大切さを知る3つの物語
『ヒューマニタス』山本亜季

 師走と言えば、普段は泰然自若としているえらーい先生までもが(お坊さんのことだという説もある)走り回るくらい慌ただしい1ヶ月だ。とは言え、1年を締めくくる月なんだから、ちょっと立ち止まって今年を振り返る余裕があってもいい。
 1年間まじめに人生や仕事や家族に向き合ってきたか? 怠けてはいなかったか? 惰性で過ごしてはいなかったか……。
 自分自身のことを考えてみると、かなり情けない1年だった。現状維持というか、守りに終始して、若い時のようなチャレンジができていない。ほぼルーティンワークで埋め尽くされたような毎日だった。
 ね。こうやって振り返ることで、来年のことを考えるきっかけになる。仕事納めがすんだら、みなさんもぜひ。
 というわけで、今回紹介するのは生きることの意味を深く感じさせてくれるような作品。山本亜季の『ヒューマニタス』である。

 ***

 スペインによる征服以前、15世紀の中央アメリカを舞台にした「オセロット」、東西冷戦下のソビエト連邦を舞台にした「ユーリ・シルバーマン」、帆船時代の北アメリカを舞台にした「エナ」という3つの短編からなるオムニバス構成の作品だ。
「オセロット」は盲目の戦士・オセロットの物語。メソアメリカ先住民の間には、双子の兄弟が生まれると別々にして育て、13歳になると戦わせて、生き残った者を部族に迎え入れるという習慣があった。戦いは太陽の神に捧げる儀式として執り行われ、敗者の心臓は神への貢物となり、死者の魂は勝者とひとつになると考えられていたのだ。
 目の見えないオセロットを剣士として育て上げた父・ネスロは勝ち目の薄いオセロットを儀式の直前に逃がそうと企てるが、彼は儀式の場に戻ってくる。オセロットと双子のコヨートルは、お互いの存在を知らないまでも、剣の先生である父とその剣を通して心から通じ合っていたのだ。その相手と真剣勝負に臨むことは、オセロットの生きる目的でもあった。そして……。

「ユーリ・シルバーマン」はソビエト連邦のチェスの天才の物語。政治犯として収容所に収監されていたユーリは、チェスの才能を見込まれて収容所から出された。ユーリはKGBの監視下に置かれながらチェスの腕をみがき、やがて国の英雄として持ち上げられる存在までになった。しかし、彼が望んでいたのは勝利ではなく、逮捕された時に離ればなれになった妻と娘の消息を知ることだった。
 世界大会に出場することになったユーリはアメリカ代表のアーロンとの対戦を迎えるが、それはソビエトとアメリカの国の威信を背負った対局でもあった。そんなさなかに、生き別れだった娘が難病に罹った状態で発見される。両国の関係者はこの情報を利用すれば戦局を左右できると考えたが……。
 これは、映画『完全なるチェックメイト』やABBAのミュージカル『チェス』の原作にもなったソ連のチェス世界王者ボリス・スパスキーとアメリカの挑戦者ボビー・フィッシャーによる実際にあった対局をモデルにしているのだろう。しかし、ユーリの娘を東西両陣営がそれぞれに利用しようとする部分は作者のオリジナルだ。
「痛みや犠牲の伴わない進歩などない。」というユーリの決断が心を打つ。

「エナ」は北アメリカの氷の海で鯨を追って暮らすイヌイットの女ハンター・エナとイギリス人・ウィリアムの物語。
 鯨猟のあとで、彼女は船が難破して流氷に打ち上げられたウィリアムを助ける。はじめのうちは、言葉も通じないイヌイットの人々の中で戸惑っていたウィリアムだったが、エナとの交流を通じてしだいに部族に溶け込んでいく。そして、イギリスの文明社会とは全く違うイヌイットの生き方にも、ちゃんとした理由があることを知る。
 過酷な自然と戦いながらも笑顔を絶やさないエナやあきらめることなく昔ながらの暮らしを守り続ける部族の人々の姿が美しい。
 だが、捕鯨に出かけるエナを見送ったウィリアムのもとにイギリスからの捜索隊が現れ……。

 時代も場所も違う読み切りになっているが、この3作品を貫くのは「自分自身との戦いこそが生きることだ」というメッセージだろう。「戦う」と言えば、出世のための「競争」や、何の恨みもない相手を傷つけなくてはならない「戦争」のようなものを想像するかもしれないが、そうではないのだ。真の戦いは自分自身との戦いなのだ。だからこそ、戦いの中でオセロットは再生し、ユーリは誇りを手にし、エナは部族と自らの命を未来へと繋いでいく。

 絵も達者で言うことなしなのだが、ひとつだけ残念なのは、この本が1巻で完結してしまっていること。同じテーマで描くことはまだまだあるはず。ぜひとも描きついでいってくれることを望みたい。

中野晴行(なかの・はるゆき)

1954年生まれ。和歌山大学経済学部卒業。 7年間の銀行員生活の後、大阪で個人事務所を設立、フリーの編集者・ライターとなる。 1997年より仕事場を東京に移す。
著書に『手塚治虫と路地裏のマンガたち』『球団消滅』『謎のマンガ家・酒井七馬伝』、編著に『ブラックジャック語録』など。 2004年に『マンガ産業論』で日本出版学会賞奨励賞、日本児童文学学会奨励賞を、2008年には『謎のマンガ家・酒井七馬伝』で第37回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。
近著『まんが王国の興亡―なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか―』 は、自身初の電子書籍として出版。

eBook Japan
2016年12月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

イーブックイニシアティブジャパン

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