追試される権威

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追試される権威

[レビュアー] 諏訪敦

 レオナルド・ダ・ヴィンチの名を、僕は父の書斎机で教わった。賢そうな広い額と白髭の有名な肖像図版を見せられながら、その名を聞いた。とても小さな頃だ。いつもの聞き慣れた日本人の名とは違い、音楽的な高揚感をもった音が連なり、歌いだせそうなその名を「とにかく偉いんだろうなあ」と、生まれて初めて知る、動かしがたい“権威”として刷り込まれたのだと思う。

 本書は、おそらくは歴史上もっとも尊敬を集めた芸術家の、膨大な手稿のうち解剖関連の部分を集め、最新科学の成果をもって再検証するというスリリングな内容で、豊富な美しい図版を眺めながら一気に読み終えられる。

 通常、芸術家の為の美術解剖学といえば運動器系、つまり筋肉や骨格の形状と可動範囲の把握などを意味しており、呼吸器や循環器などの内臓、ましてや神経系の研究などは対象外だった。ルネサンス当時の画家にとっては、理にかなった肉体の形を担保した上で効率的に再現描写できる能力は必須だった。とりわけ大きな仕事をこなすには、大画面に任意の人体を無限生成できるような肉体への理解力が問われた。それはルカ・シニョレッリやミケランジェロらの夥しい裸像ひしめく壁画などを想像するとわかりやすい。美術解剖学は明白な存在意義と用途がある実学の側面が強く、この知識の確立が結果的にマニエリスムを誘発したともいえる。ただそれは主に外観の形状と動勢に関係する知識に限られていた。

 そのような時代にあってレオナルドの面白いところは、本来画家であるにも拘らず、絵画に知識活用が考えにくい部位(脳神経系、循環器系、生殖器系など)の観察と描写に熱をあげ、ある臓器は生命維持の為にどういう貢献をしているのかといった“はたらき”への分析にまで、多くの労力を注ぎ込んでいた点だ。この興味の拡張と強烈な知識欲は、医学も越えて神の意図を読み取るような考察にまで届いている。研究にあたる熱狂が彼を画家という枠組みを踏み越えさせ、超時代的な存在たらしめたのだと思う。

 その手稿は多くの先見性を讃えられて、いまや神秘性までも纏っているが、いかに不世出の天才レオナルドといえども、実は迷信の中にあったことは言うまでもない。著者は500年後の現代科学の成果をもって 眼球、大動脈弁、気管支循環、性交解剖図を例にとりながら「レオナルドはいったいなにを目撃し、どのようにそれを解釈したのか」と切り込んでいくが、そこにはやはり手厳しい批評も含まれる。曰く「誤った結論にたどりついてしまったのは、視覚や光学についての知識がありすぎることが一因だった」、曰く「ヒト以外の動物を研究対象とし、しばしばキマイラあるいはヌエ的な解剖図を描いた」など、ほんとうに容赦がない。

 信奉してきたレオナルドが追試されるような内容を読み進めることは、奇妙な感慨を与えてくれたが、15世紀末のレオナルド自身の手記にも既にルネサンス知識人にとって“権威”であった、ギリシア・ローマの古典に盲従することへの戒めがあったそうだ。曰く「他人のことばからよりも、経験から引用すべきだ」というように。

 強調したいのは正しくレオナルドは画家の本性に忠実であったということだ。対象部位の剖出によって的確なサンプルを実見する機会があたえられた場合には、持ち前の濁りのない観察眼で、ときには超時代的な発見もなしていることを、本書は再確認させてくれる。そして僕のレオナルドへの信奉も逆に強いものになった。彼は両眼で見たものは、遠近法をもってしても絶対に平面上には完璧に再現できないという、当時の画家にとって絶望的な考察にまで既に到達していた(これ自体驚嘆に値するが)にも拘らず、“観る人”であることの立脚点は生涯揺らぐことはなかったのだと。等間隔な左上がりのシェーディングにいろどられたレオナルドのドローイングは、思考の痕跡を如実に伝えてくれ、やはり理屈抜きに美しいものだ。

新潮社 芸術新潮
2013年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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