幼児的な情動のダダ漏れ

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ポエムに万歳!

『ポエムに万歳!』

著者
小田嶋 隆 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103349518
発売日
2013/12/04
価格
1,404円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

幼児的な情動のダダ漏れ

[レビュアー] 橋本麻里(ライター・エディター)

 コラムニスト・小田嶋隆さんの新著が「ポエム」を中心に編集されていると聞いて、とても楽しみにしていた。私自身、ここ10年ほどの媒体を問わない「ポエム」的なテキストの増大を、興味深く眺めていたからだ。話を進める前にまず、「ポエムとはなにか」という定義を確認しておきたい。

 小田嶋さんによれば「ポエムは詩ではない。/散文でもない。手紙文でも声明文でも記事文でもルポルタージュでもない。/ポエムは、書き手が、詩であれ、散文であれ、日記であれ、手紙であれ、とにかく何かを書こうとして、その『何か』になりきれなかったところのものだ」としている。そのポエムの例として引用されているのが、「俺が『サッカー』という旅に出てからおよそ20年の月日が経った」に始まる中田英寿の引退メッセージ(2006年)であり、「玲奈/キミの名前を登録したよ/ボクの心の電話帳に(略)」という青年誌における水着グラビアページの惹句であり、朝日新聞の看板コラム「天声人語」であり、Jポップの歌詞であり、相田みつをの作品であり、東京五輪招致委員会のメッセージ「私たちはいつから目的をもつことがヘタになったんだろう。/私たちはいつから勝たなくてもいいと/斜に構えて挑戦することから逃げるようになったんだろう。/私たちはいつから経済大国という言葉に甘えて/情熱を特別なものにしてしまったんだろう」(初期バージョン)だというわけだ。……蟻走感に耐えて読んで下さった皆さん、ありがとうございました。どういう文章を詩ではなく「ポエム」と呼ぶのか、うっすらとでも了解いただけただろうか。

 ウォルター・J・オングの『声の文化と文字の文化』的に解釈するなら、音声として発される言葉が先にあり、そこにまとわりつく情報と論理以外の「ノイズ」が重要な意味を持っていた時代が、かつてあった(声の文化の時代)。それがノイズを捨象したテキストを読み、書ける人間が支配層となる時代が到来(文字の文化の時代)、やがて入力デバイスがペンから、より容易なキーボードやフリック入力になり、編集や校閲というスクリーニングを経ない非プロフェッショナルが、無数の言葉(文字)をネットに放流できるようになったことで、より口語に近いテキストが増加、声の文化の時代に回帰しつつある――とも言えるかもしれない。

 その口語的な「ポエム」は、傾向として個人の情動を最優先する幼児性(ネットスラングで言うところの「中二病」である)を多分に持っており、だからこそ読んでいる側の「痛い」「恥ずかしい」気分を強烈に惹起するのだが、情動優先の文芸が必ずしも「痛い」わけではない。たとえば本邦における声の文化の時代のもっとも重要な文芸である「和歌」。

「やまとうたは、人の心を種として」から始まる『古今和歌集』の仮名序は、「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」と冒頭の一文を結ぶ。人の心から生まれた歌が天地さえ揺り動かす、というのだから情動への信頼度はマックスだ。だが厳密なフォーマットや踏まえるべき古歌というオトナの技術を駆使した上で詠まれた歌は、自閉した自分語りに陥ることなく、天地や鬼神どころか、千年後の読み手さえ感動させてしまう。

 容易にポエム化してしまう幼児的な情動のダダ漏れは、「自分らしさ」の「自由な表現」を金科玉条としてきた学校教育を筆頭とする、近~現代日本の価値観に依拠するものではないかと、個人的には考えている。これに対抗して成熟すること、大人になることのメリットをどう提示するのが効果的なのか、残念ながら私はまだ何のアイディアも持っていない。

新潮社 波
2014年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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