庶民派の才人にとって戦争とは

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八代目正蔵戦中日記

『八代目正蔵戦中日記』

著者
林家 正蔵 [著]/瀧口 雅仁 [著]
出版社
青蛙房
ISBN
9784790503040
価格
2,592円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

庶民派の才人にとって戦争とは

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

 頑固一徹で怒りん坊、信心深くて働き者、それでも「欲シガリマセン勝ツマデハ」といった綺麗事なんかは唱えない。戦時下なのに朝酒も飲むし、窮屈な配給暮らしに不平を洩らす。これぞ典型的な「長屋の住民」だった落語家の戦中日記が出た。

 八代目林家正蔵(晩年は林家彦六。戦中は五代目蝶花楼馬楽)は今年が三十三回忌というから、とっくに過去の人のはずだ。なのに多くの人が身近に感じるのは、弟子の林家木久蔵(現・木久扇)が高座や「笑点」で、師匠のものまねをオハコにしてきたからだ。身体と声を震わせながら「バ、カ、ヤ、ロ、ー」と鼻の穴から声を出すと、師匠がずっと住みついた浅草は稲荷町の長屋の空気がたちまち、たちこめる。

 格別な非常時だった戦時下の日記は今までにもたくさん出版されている。お笑いの世界では、古川ロッパと徳川夢声の克明な日記が双璧であろう。しかし、ロッパは男爵家の御曹司として生まれ、早大英文科出、夢声は日本一の名門校・府立一中(現・日比谷高校)卒だ。インテリである。

 正蔵師匠はといえば、浅草で育ち、尋常小学校四年を了えると奉公に出された。十八歳で噺家になってからも長年の貧乏暮らし、貧の一字が身体に染みついてしまっている。やっとこ売れて生活が安定し、いまや四十代後半の働きざかりなのに、あくまでも市井のふつうの庶民の日記なのだ。そこがまた面白い。

 記述の過半は、芸のこと、芸界のこと、客の入り、芸人同士や劇評家との喧嘩反目など寄席まわりの記述だが、その一方で目立つのが、長屋の住人としての銃後の日常である。

「雪隠が一パイになったので、汲み出し作業をやらかした」「便所の汲み取りをやって往来で手ばなをかむ」「おわいを汲むにバケツが腐ってゐて底ぬけ、泣きたいほどのくささなり。これも戦争の影響なるかな」などと頻出する。人手不足で汚わい屋が来なくなり、臭い仕事に精を出している。凝り性の仕事熱心のせいで、しまいには長屋中の便所掃除を引き受ける。「だんだん深く壺を汲んでゆくと何処の家のも特色がなくなって一ツになるのは、人間終局の空になるのと同一で頗る面白いものだと思った」。

 隣組の重要な仕事としては空襲に備えての警防団の任務がある。この記述もやたらと目につく。寄席の掛け持ちで東京中を歩きまわる日々に、夜勤が交じる。なかなかハードなお役目には、「生きがひを感じる」こともあれば、「莫迦々々しい任務が多く腹立たしく」なることもある。昭和十七年四月のドーリットルによる東京初空襲には病身をおして、警防団本部に出動する。それまでの戦勝気分は吹き飛ぶ。その日の深夜、「立哨してゐると、空襲警報が鳴り出した。一瞬ガタガタふるへた。武者振ひと謂ふか」とは、江戸っ子の負け惜しみであろう。

 昭和二十年三月十日の東京大空襲では、正蔵の長屋は危うく難をまぬがれた。隣組の連中の必死の消火活動で、火を直前でくい止めている。自伝『正蔵一代』では、「多少火災についての知識は注入されてますからね」と語っている。警防団をやっていた甲斐はあったのだ。

 日記では、空襲の様子を「あわただしい戦場」と表記している。銃後ではなく、そこは戦場となったのだ。三月十二日の記述にはこうある。「平常心とは何時でも死ねる心境なり」。翌十三日「尊き霊位トラックで運ばれる街を往く」。十四日は久しぶりに湯に浸かれて一句「湯上りや 神を念じる こゝちして」。

 その日は講談落語協会会長の一龍斎貞山の死体が上野の山で四日ぶりに発見される。死体引き取りの諸費用は金一千円。棺桶代百十円(ベニヤでペコペコ)、「公園課の係りに壱百円献上した」(謝礼か賄賂か)。師の円遊も病気で亡くなり、二つの御弔いは十九日に同時に行なわれた。あの時代としてはずいぶん丁重に葬られたほうであろう。翌二十日「湯に這入った。調髪もした。文楽さんの宅で分けていただいたブドー酒にも酔った。煙草も喫った。久しぶりで人間世界のぜいたくを全部つくした。神仏にお許しを乞わねばならない行状だ」。この記述に、稲荷町の師匠の真骨頂を見る。

 桂文楽の名前がここには出ているが、日記全体では古今亭志ん生、三遊亭円生らのこともよく出てくる。同世代のライバルたちの芸と行状を厳しく見つめている。各寄席の客の人数、地方慰問のギャラ、ラジオの出演料など、落語家の懐ろ具合もよくわかる。戦況に左右される客の入りに一喜一憂する姿を追跡していけば、戦時下の庶民感情を数値化することもできるかもしれない。戦争報道への反応は意外と少ない。むしろ戦時下の日常の方が大事だったのだろう、ある時期までは。そうしたいろいろなことに手がかりを与えてくれる貴重な日記である。

 ひほし狩り(潮干狩り)、シゲ(ひげ)、ピリッピン(フィリッピン)などという東京弁が発音通りに記されているのも懐かしい。こんな老人は東京の町からもう消えてしまったのではないか。

 私が一番驚いたトリビア記述は、立派な弓場で行われた余興の客に、独ソ不可侵条約の報に接して、「欧州情勢は複雑怪奇」との迷言を残して昭和十四年夏に内閣総辞職をした元首相がいたことだ。検察を牛耳った、国粋主義の大立者でもある。「お客様には平沼騏一郎閣下がおみえになりてゐ、よく笑って下すったのは有難かった」。強面の老政治家が笑っている。これはまだ戦勝気分一杯の昭和十七年三月の記事である。

新潮社 新潮45
2014年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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