ベストセラーなんかこわくない [著]入江敦彦

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ベストセラーなんかこわくない [著]入江敦彦

[レビュアー] 小山太一(英文学者・翻訳家)

『イケズの構造』(新潮文庫)を始めとする「京都本」の書き手として名を売ってきた著者。古都千年のエキスと言うべきか、どの本もとにかく「濃い」。目下一冊だけの小説『テ・鉄輪』(光文社)など、ページの背後に窺われる人間の業の深さに眩暈(めまい)がする。おそらくこの人自身、書くことによってしか厄払いできないものを大量に抱え込んでいるのだろう。

 私は彼の「京都本」を楽しみつつ、これだけの何かを持った書き手が京都に限定されたジャンル・ライターで終わるはずがない、いずれは京都というホームのみならずアウェーでも戦うようになってくれるに違いないと睨んできた。それがこのような形で実現したのは大変喜ばしい。

 一見、あたりまえの書評集のような体裁だが、のっけからカマしてくれる。いわく「書物であることを忘れて読めばヒット本というジャンルは頗(すこぶ)る興味深い」。つまり、種々のベストセラーを取り上げつつ、内容の高低や書きぶりの巧拙はいったん棚上げするという宣言だ。なぜそれらがベストセラーという現象になりえたのかを、考現学的に分析してみようということだ。俎上に載るのは、松本清張に有吉佐和子、山口百恵に二谷友里恵、松本人志に乙武洋匡にリリー・フランキーと多士済々。

 松本人志の『遺書』に芸人の著書としての「影の薄さ」を見出したり、リリー・フランキー『東京タワー』は「アマの土俵に上ることで書くべきことを書かずに済ませる立場を獲得した」おかげでベストセラーになったのだと言い放ったりする考現学的分析のイケズさは、いつも通り鮮やか。だが待てよ、そうした分析が成り立つのも、著者が冒頭のカマシにもかかわらずそれらを思わず「書物」として扱い、眼光紙背に徹して読解してしまったからでは? いかなる本でも読み始めたからには真剣に対峙せずにいられない、という読書中毒ぶりも、この著者が抱える業のひとつではあるまいか。

新潮社 週刊新潮
2015年11月12日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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