新たなる真田信繁像と意外なる歴史の真実

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真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実

『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』

著者
平山 優 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784047035638
発売日
2015/10/22
価格
1,944円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

新たなる真田信繁像と意外なる歴史の真実[自著を語る]

[レビュアー] 平山優(日本中世史研究者)

 真田信繁の生涯はいまだ謎に包まれている。いや、ほとんど謎だらけだといった方が正確だ。なぜなら、史料が極めて稀少だからである。

 二〇一六年放送の大河ドラマ「真田丸」では、奇しくも時代考証担当を務め、謎多き信繁と改めて向き合うこととなった。今回の拙著でも、史料の制約に苦しみながら、諸説を根底から洗い直し、真田信繁の事績と大坂の陣をめぐる謎解きを試みている。

 まず、信繁発給文書を集成し、また彼の使用した花押・印判とその編年変遷の検討を行った。その結果、巷間伝える如き、信繁から幸村へと改名した事実はないことを突き止めた。そして、信繁は、非常に繊細で他者への配慮を怠らぬ人物であることも知ることができた。

 彼は大坂の陣において、自らが豊臣方についたことで上田の真田家に迷惑が及ぶと心を痛めていたのである。その心情は、手紙の紙面に溢れている。

 また、信繁が大坂の陣でなぜあれほどまでに活躍できたのか、史料を捲りながらその理由を懸命に探ってみた。すると、信繁の個人的な才能や実力もさることながら、当時の大坂方と徳川方との根本的な違いが浮かび上がってきたのだ。

 大坂方の兵卒は、年齢層が高いものの、実戦経験豊富な牢人たちが主力であった。それに対し徳川方の諸大名は、一部を除き、大将(大名当主)から、重臣や兵卒に至るまで、これが初陣もしくはそれに近いという人々が多数であり、実戦経験が不足していた。

 この違いが、戦場の各地で表面化した。徳川家康は、事態を重視しており、戦国合戦の生き残りの武将たちを、御目付衆(軍監)として各軍に配置し、合戦の駆け引きの助言を行わせ、戦闘を優位に進めようとした。しかし、かえってこれが混乱を助長させてしまったようだ。こうした徳川方の様々な要因が、真田信繁の活動を助ける結果をもたらしたといえる。

 二度の大坂の陣のうち、最初の「冬の陣」は大坂方の勝利と世間では認識されており、「夏の陣」でも大坂方の勝利が目前だったことは衆目の一致するところであった。それがなぜ、敗北という結果に繋がってしまったのか。

 さらに大坂の陣における最大の謎は、徳川家康の思惑である。通説では、家康は豊臣氏を滅ぼす野望に燃え、無理難題を押しつけて豊臣秀頼を追い詰め、その暴発を促したといわれる。だが、確実な史料を追っていくと、家康はあくまで豊臣氏存続をめざし、交渉をねばり強く続けていたことが判明した。

 大坂冬の陣後、大坂城の堀を埋め立てたのは、豊臣秀頼を担いで牢人達が再度蜂起する可能性を封じようとしたからに他ならない。そのことは、秀頼も理解していた節がある。

 そうでなければ、豊臣氏が堀の埋め立てを諒解した理由がわからない。徳川方が、大坂方を騙して内堀まで埋めたというのは俗説である。

 では豊臣氏は、なぜ滅亡に追い込まれてしまったのか。最大の原因は、大坂城内部での対立と分裂を、秀頼が抑えきれなかったことにある。

 大坂冬の陣では、真田丸での信繁らの活躍で徳川方には甚大な被害が出ていた。また諸大名は、兵糧不足と寒気の中で長期滞陣に苦しんでいた。家康が和睦を急いだのは、もっぱら徳川方の内部事情に根ざしていた。

 皮肉なことに、これらの事実が、大坂方勝利との認識を世間に広め、和睦後、大量の牢人をさらに大坂に流入させる事態を招いた。徳川方が不信を募らせたのは無理もなかろう。秀頼は、その意思とは裏腹に、夏の陣開戦に引きずり込まれてしまったのである。

 真田信繁は、豊臣氏存続を第一義としつつ、大坂を退去しない牢人たちの処遇にも配慮する戦後処理を目指したが、実現せず、決戦に活路を見出すしかなかった。

 信繁最後の戦いの模様、彼とともに散った兵卒とその家族の末路は如何なるものだったか。詳細は、ぜひ拙著をご期待いただきたい。

KADOKAWA 本の旅人
2015年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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