異世界へ連れ去られる快楽 阿刀田高『地下水路の夜』

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地下水路の夜

『地下水路の夜』

著者
阿刀田 高 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103343295
発売日
2015/04/22
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

異世界へ連れ去られる快楽

[レビュアー] 松本侑子(作家・翻訳家)

 正月から、声帯炎の治療で酒を止めた。量は多くなかったが、毎晩、ナイトキャップを一杯飲んでいた。幸い、苦労もなく断酒できて、治った今も止めている。だが時々、恋しく思うのは、ほろ酔いの感覚だ。知性と理性のねじを少しゆるめ、いつしか現実から離れ、時間も忘れ、夢の世界へ漂っていく。この快い感覚は、アルコールでなければ得られないかも……。そう思うと、寂しかった。

 ところが小説集『地下水路の夜』を読んで、その感覚を味わった。少しずつ現実から離れ、時を忘れ、知らず知らず異世界へ連れ去られる快楽を、堪能したのだ。読み終えると、ここがどこなのか、一瞬わからなくなるほど面白い。

 本書には、十二作の短編小説が収められている。

 冒頭の「たづたづし」(古語で確かでないの意)の主人公は、大学で『源氏物語』を教える女性だ。みやびな平安文学の語りと恋の遍歴と、夜見る夢の物語を行き来するうち、はっと胸をつく結末を迎える。すなわち、主人公が産んだ子の父親はだれか。夫か、それとも……。小説中には、光源氏とその義母・藤壺の不義密通によって冷泉帝が生まれるくだりが紹介され、意味深長だ。だが、出生の疑いは、主人公の母の耄碌、虚言かもしれず、「たづたづし」くミステリアスな気配に包まれている。この魅惑的な冒頭作から、読者は一気に、現実と夢幻が交錯する阿刀田ワールドにひきこまれていく。

 続く「薬指の秘密」の主人公は、相手の薬指を握ると、その人の考えがわかる、という能力に恵まれた男だ。この力をプロポーズの際に発揮したところ……。こちらも意表をつく、粋なドンデン返しが待っている。

「朗読者」では、お通夜で死人に、物語を三つ朗読して聞かせる。一つは故人が好きだった話、一つは遺された人が好きな話、最後はある物語を読みあげると、死者が蘇る、という伝説を試してみると……。私は怖さに叫んでしまった。この作品中には、磔刑で死んだイエスが復活して弟子パウロに会った話が語られる。著者は、各作品に伏線を張りめぐらし、示唆に富んだ構成を工夫している。再読して、「ここに、こんな仕掛けが!」と謎ときをする楽しさといったらない。

 社会的な風刺に満ちた寓話もすばらしい。表題作「地下水路の夜」だ。主人公の文也が、少年のころの不可解な思い出を回想する。古いビルに入ると、地下に水路が流れていた。つながれていたボートを漕いでいくと、広間にたどりつく。本を集めた図書室で、女の人が絵本を読んでくれた。少年は地上へ戻り、後日、あの水路を探すが、もう見つからない。

 成長した文也は、製紙会社に入り、先輩の古沼さんから紙とパピルスの歴史を教わる。紙が普及していない古代ギリシアでは、民衆に演説する弁論のうまさが求められた。だが紙に記録されないため、その場限りの雄弁さ「ヒュポクリシス」が重んじられる弊害もあった。やがて紙が広まり、人の主張は、責任ある言論へ変わった。小説の結末は、現代だ。紙の本が力を失いかけ、ネットの不確かな言説が流布する今、街頭で人気タレントが選挙の応援演説をする。どぎつい話に、群衆が拍手を送る。人混みの中に、死んだはずの古沼さんが現れ、「ヒュポクリシス」とつぶやき消えていく。口当たりいい無責任な弁論が、また民衆を扇動していくのか……。

 この作品も、仕掛けがある。最初に主人公がたどりつく地下の広間は「紙」の本を集めている。そもそも主人公の名前「文也」とは、「紙に書き記した文」の男なのだ。

 個々の作品紹介はここまでとしよう。これから本書をひもとく読者の幸福な悦楽のために。

 十二作には、それぞれに阿刀田文学の魅力が満載だ。ブラックな余韻を残す結末、知的なサスペンス、美しい女性への憧憬と恐怖、妖しいエロス、数字のパズル、確率論のクイズ、博識の著者ならではの古典や聖書のトリビア、警句の数々、シュールレアリズムの絵画に入りこむような奇妙な世界。

 だがその幻想は、荒唐無稽ではない。主人公は、冒険家ではなく、普通の暮らしを営んでいる男と女だ。そんな人々の無意識の底から、忘れていた過去、胸に秘めていた性的な夢想、叶わなかった願い、好きだった異性の面影、懐かしい場所、不思議な偶然、誰かが言った言葉が、ゆらゆら浮かびあがる。それは眠りながら見た夢かもしれないし、妄想、白昼夢、記憶違い、錯覚かもしれない。実際にあった奇跡かもしれない。それはこの世にも、あなたにも、ありうる現実(うつつ)と夢のあわいなのだ。理性と知性だけで生きているのではない人間の不確かさと愛おしさが、ぐいと胸に迫る傑作小説集である。

新潮社 波
2015年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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