でくのぼう杭につまずく 西部邁『生と死、その非凡なる平凡』

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でくのぼう杭につまずく

[レビュアー] 大竹まこと(コメディアン)

「? 格子窓から空みれば、あの星あたりが助の宿、助ちゃん今ごろ何してる、きっと俺らの夢みてる」。七十六歳になられた西部邁氏がラジオの生放送で歌っている。これは練カン・ブルース、放送禁止歌であるのだが、その時は気づかなかった。

 何故この唄を歌われたのか。この男はどんな道を歩いてきたのか。不敵な面がまえはどこに起因するのか。決して笑わぬ顔。左翼から右翼への転向の理由は。何かを諦めたように語る口ぶり。アウトロウ。そして保守の論客と自ら名告る議論のよりどころは何か。

 本書のそれぞれの章は、時代を前後しながら清廉な言葉で綴られてゆく。私のような高卒のチンピラに何が出来るというのか。何がわかるというのか。その各章は、同時代を少し遅れて生きてきた私の過去にもつながる。

「半世紀前、樺美智子が死んだ」は、私が十一歳の時の出来事である。小学校五年だった私はTVのニュース映像で、大学生達がヘルメットをかぶり、国会議事堂であろうか、その前の道を、スクラムを組んでジグザグにデモ行進をしているのを見た。思想も何もわからない私は、ただ「格好いいなあ」と胸の内でつぶやきながら家族四人の食卓を囲んでいた。

「正気と狂気のあいだを渡った人」は、立川談志さんとの交流が書かれている。何年か前、ラジオスタジオの隅にある三畳ほどの喫煙室で出会った談志さんは「年を取ったら、芸はダメだ」と絞り出すような声で話されていた。数年後、談志さんの訃報を知った。

「シンフェーンの覚悟」のシンフェーンとはゲール語で「我ら独り」という意味だそうだ。反体制派は何故いつも、又、どの国においても過激派と穏健派に分裂してしまうのか。

 ただやはり、単純な構造しか持たぬ私の脳は最終章に強くひかれる。本書のタイトルもこの章の物語りに向かって付けられていると思うが違うのか。あえて、物語りと書かせて頂いたが、よろしいか。

 最終章は、亡き妻Mへの想いであふれている。西部氏の身体は、もう頸椎が曲がってしまった上に汚血が血管の隅々に溜まり、そのせいで全身が神経の痛みに襲われているのに、痛む手指で、二重にした手袋を外してまで綴っていくのである。その勢いは原稿用紙の枡目を食み出している。

「大竹の奴、好き勝手に書き散らしやがって、もう許さんぞ」の声が聞えてきたが、私は気にしない。どんな書も読み手のものなのだ。

 重い吃音にとらわれて自閉し切り、妹の一人を交通事故に遭わせて狂人となる寸前で蹲るばかりであった少年、政府にたいして出鱈目なレジスタンスをやって囚われ人になり、仲間とやらに「戦線逃亡」を宣して裏街を彷徨していた青年が、やがて保守の論客に。その五十九年間、西部氏の隣りには十六歳の時に出会ったMがいた。同じ時を過し、「ちょっとしたことをどちらかが話しかけ、それにたいし相手がちょっとした言葉を返」してきたMは、もういない。

 そして物語りは驚くほど静かな日常性の中に消えて行くのである。西部氏はこの一年、全てを彼方におしやって高笑いしたいのだが、悲しいかな、氏は哄笑の術を知らないのだ。喜劇は悲劇に変わり、あっという間に元の形に戻ってしまう。

 西部氏がラジオの生放送で歌われた練カン・ブルースの意味が、今ならわかる。氏は自宅の寝室のマッサージ・ベッドに身をあずけ、タンスの上に置かれた、まだよく正視できないでいるMの遺影に歌っていたのだと。

 読者の方々、この私の駄文が少しでも届いたであろうか。何しろ半径五メートル以内に湧き起こる私憤だけで生きてきたのだから、私に知性はない。しかし、そんな私でも、西部氏がベッドで口ずさむように、心の詩がある。それは、三十年前に自死した友から伝え聞いた特攻隊の詩である。

「? ある晴れた日に、俺は死ぬ、空の碧にとけて行く、その時俺は恋人の名前をそっと呼ぶだろう」

新潮社 波
2015年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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