【自著を語る】悲しみの歌に満ちたホームズ世界

レビュー

0
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

新しい十五匹のネズミのフライ

『新しい十五匹のネズミのフライ』

著者
島田 荘司 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103252344
発売日
2015/09/30
価格
2,160円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

【自著を語る】悲しみの歌に満ちたホームズ世界

[レビュアー] 島田荘司

 校正をすべて終え、夜中に youtube で音楽を聴いていたら、バリー・マニロウとかエンゲルベルト・フンパーディンクが歌う古いスローバラードが聴こえたんです。「How do I stop loving you」という曲なのですが、詩がよくてね、これは今回の物語の、ワトソンの歌だなぁと思ったんです。物語が閉じたのち、修道院に入った彼女に宛てた、決して出されることのない彼の手紙。
――あなたを忘れがたくて。ぼくらの人生の背後にあるものを去りがたくて。あなたを心で追う日々が、とうとう来てしまったと感じています。ぼくは恐れています。ぼくを絶えずうしろ向かせ、あなたが過去の追憶以上の存在であること、そして未だにぼくの一部であることに気づかされることを。
 だから、どうしてあなたを愛することをやめられるでしょう。かつてのわれわれのありよう、そして分かち合った夢を。どうしてこの思いを切り上げなくてはならないのか。さよならを言うために、どうすれば忘れられるのか、どうか教えて欲しいのです――。
 何度か聴くうち、次第に気づくことがあって、それは、今回の『新しい十五匹のネズミのフライ ジョン・H・ワトソンの冒険』は、ホームズ・パスティーシュであると同時に、ワトソンのラヴソングなのだということ。そして、さまざまな悲しみの歌が、この物語をすみずみまで充たしているということです。
 ご存じのようにワトソンは、大英帝国の植民地、インドに軍医として従軍しました。しかし第二次アフガン戦争で、心身ともに深い傷を受けて帰還します。おそらく今日で言うところのPTSDであったろうと思う。その従軍も、失恋の痛手に堪えかねての決意でした。
 当時大英帝国は世界の中心でしたから、ホームズ世界に入って恋愛小説を書いていけば、自動的に歴史と国際問題、人種問題、最新科学を得ての白人の傲慢等々を描くことになる。
 しかし今回、むろんそのようなものを書きたかったわけではなく、「赤毛組合」事件の《語られざる真相》ですね。あの事件は正典に現れたような単純なものではないと思ったこと。そして日に三度もコカインの七%溶液を注射しているような男が、入院せずにいられたはずもなく、彼の激しい発作を示す痕跡が、正典群中に必ずあるはずだ、それを見つけて示そうというような、単に「本格書き」としての動機であったわけですが、みるみるそれだけではすまなくなっていった。
 探偵のこの悲劇は、あきらかにアヘン戦争という帝国の極悪が、本国に還流したものです。ホームズ物とは、そういう地球規模での辻褄の合い方を語る、気宇壮大な教訓物語という側面がある。今回のワトソンは、ならず者に誘拐された、思慕する義姉を命がけで救出するんですが、彼女が監禁された館には、黒人たちを依然奴隷扱いする、したり顔のもと銀行家とか、インド戦線で知り合った狡猾なサディアス・ショルトーがいる。これはいわば大英帝国の罪の縮図で、善良なワトソン自身、実はその罪の一翼を負っているわけです。
 ワトソンを手助けするのが黒人のジョーであり、エミリーです。二人とも無学だけれど、聡明で、ジョーはハーモニカで見事なブルースを奏でる。彼の根底にある深い悲しみが、彼に音楽の才を与えているんです。彼の人柄に感動したワトソンは、「馬鹿な白人ばかりですまない」、と万感の思いで謝罪しますが、ジョーは白い歯を見せてこう言います。「そんなことはねぇ、旦那みたいな人もいる」と。こんな場面が現れるなんてね、書く前は思ってもいなかった。これ、一番好きな場面です。創作の女神が舞いおりたと感じた瞬間ですね。
 では肝心のホームズはこの時どうしていたか。彼は中毒の発作で入院中、全然頼りにならない。大英帝国のアヘン輸出の罪を、彼もまた引き受けている。この時のホームズの妄言を聞かされたワトソンが、鬼の編集者に急き立てられ、無理やりこれで物語をでっち上げたものが傑作「まだらの紐」や、「這う人」だという驚くべき真相が語られます。
 今ワトソン物を書き終わって感じることは、十九世紀、白人の帝国主義に翻弄されたさまざまな悲しみの歌が、極東の私のデスクに直接的に飛び込んできたという驚きです。これこそは、触媒としてのホームズ物の力ですね。御手洗物を書いていても、こんなことは起らない。長い時の試練を生き延び、ホームズ物が未だに愛され続ける理由もそこにあるのだと思います。
 (島田荘司氏の談話を編集部でまとめました)

新潮社 波
2015年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • このエントリーをはてなブックマークに追加