切れるほどの身銭を持たざる人へ

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村上さんのところ

『村上さんのところ』

著者
村上 春樹 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103534310
発売日
2015/07/24
価格
1,404円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

切れるほどの身銭を持たざる人へ

[レビュアー] 内田樹(思想家)

 人生相談本では、定型的な質問に「いらっ」とすることがある。僕もこれまでいくつか「人生相談」コーナーのようなものを雑誌で担当したことがある(今もしている)が、「これだけ言ってるのに、まだわかってもらえないのか」と思うと、答えがちょっと冷淡になる。でも、「これだけ言ってもわからない」のは、やはり「わかりにくい」話をしているからなのである。それなりの理由がある。

 村上春樹さんは読者に対してきわめて「親切心」豊かな書き手である。読者にわかってもらおうという努力を怠ったことのない書き手が久しく主張してきて、それでもわかってもらえないことがある。それは「身銭を切る」ということである。

「身銭を切るって大事ですよね。他人のお金を使っていては、何も身につきません。本当に大事なことは多くの場合、痛みと引き替えにしか手に入りません」(「質問107」への回答)。同じことは言い回しを変えて、本書の中で繰り返し語られる。それだけ似た質問が多かったということである。

 たぶん、僕たちの社会では「質問する」というのはそのまま「難問への一般解」や「目的地へのショートカット」を求めることだと信じられている。だが、一般解をいくら覚え込んでも、それは自分がいま抱え込んでいる特殊な問題の解決にはならない。

 その種の問いに対する村上さんの回答は「猫を飼ったらどうですか」(「質問106」への回答)とか「早寝早起きをして、暴飲暴食を避け、毎日運動する」(「質問450」への回答)とか「朝は早起きして仕事をし、適度な運動をし、良い音楽を聴き、たくさん野菜を食べます。それでいろんなことはだいたいうまくいくみたいです。試してみてください」(「質問224」への回答)といったものだ。それは「人間関係で苦しんでいます」という人に「とりあえずご自分の部屋の掃除でもしたらどうですか」と回答するのに似ている。

 でも、そう書くしかないと思う。自分の問題は自分で「身銭を切って」解決する以外にないからだ。でも、そのためには切れるだけの身銭が身に付いていないと話が始まらない。村上さんはそのタイプの質問に対しては「切れるほどの身銭をまず身につける」ことを質問者に薦めている。「身銭の切り方」に一般解はないけれど、「身銭の付け方」には経験則があるからだ(「早起き」は間違いなく「身銭を付ける」上ではきわめて効果的な方法である)。

 でも、ときどきほんとうに心身ともに疲れ切っている質問者もいる。彼らに対しては村上さんは回答を少し変えて、「つらい時間をやり過ごす」ことを薦めている。「きっと時間が解決してくれる」(「質問392」への回答)とか「どんな雲の裏地も明るく輝いている(Every cloud has a silver lining)というのが僕のマントラのひとつです。落ち込んだときには、できるだけ雲の裏側のことを考えましょう」(「質問317」への回答)というような回答は「しばらくは身銭を身につける余力さえない人」に対してのアドバイスだろう。

「身銭を切る」も「やり過ごす」も時間と手間ひまがかかる作業である。たぶん多くの人はタイムラグなしで問題が解決することを善だと思っている(だから、「問題解決能力」というようなものをありがたがる)。だが、問題は解決され、処理されるためにあるのではない。むしろ、それを長い期間抱え込むことによって、「私」自身がそれを受け入れ、それと共生できるものへ熟成してゆくための「きっかけ」である。村上さんのそういう考え方に僕は同意の一票を投じる。

 ほとんどの回答を笑いと同意のうちに読んだのだけれど、一つだけ愕然としたものがあった。「質問398」の、自作が外国語訳されることを前提に書いているかという質問を村上さんは「『言いがかり』とまでは言いませんが、ただの根拠のない推測です」と一蹴したのである。僕自身は「外国語に訳せるかどうか」は(実際に翻訳されるかどうかとは関係なく)内輪の語法に絡めとられないための重要な気づかいだと思っていたので、「本当にぎりぎりのところで書いているのです。『こうすれば翻訳しやすいだろう』みたいな余分なことを考えるゆとりはとてもありません」と書かれて、そうかオレは「ぎりぎり」じゃないんだ……とちょっと落ち込んだ。「雲の裏地」を探さねば。

新潮社 波
2015年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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