コミットメントする野田秀樹 『エッグ/MIWA:21世紀から20世紀を覗く戯曲集』

レビュー

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コミットメントする野田秀樹

[レビュアー] 豊崎由美(書評家・ライター)

 野田秀樹が2000年に上梓した『20世紀最後の戯曲集』の中に収められている『パンドラの鐘』のこの台詞が今も忘れられない。〈大きな穴を掘って、この鐘を埋めるの。深く深く埋めるのよ。私と一緒に、もうひとつの太陽を爆発させる術も息たえる。ミズヲ、(中略)埋めるのがお前の仕事。そして埋められるのが、滅びる前の日の王のさいごの仕事よ。これができないものは、葬式王なんて名乗ってはいけない。それができないものは、滅びる前の日に女王などと呼ばせてはいけない〉

 太平洋戦争開戦前夜の長崎。遺跡発掘が行われている現場で、考古学者の助手オズは想像力によって数々の発掘物から歴史の闇に葬り去られていた古代王国の姿を鮮やかに蘇らせていく。それは、兄の狂王を幽閉し王位を継いだヒメ女と葬式王ミズヲの物語。ミズヲが異国で掘り出してヒメ女に捧げた巨大な鐘の謎をめぐって、2つの時間、2つの空間が重なっていくこの作品で、野田秀樹は先の台詞の直前、ヒメ女にこう言い放たせているのだ。〈埋めてさしあげて、私を〉

 ひとつの言葉や事象に複数の意味を持たせる地口遊びを自在に駆使し、少年の妄想によって退屈な現実や日常を鮮やかにひっくり返してみせる作品で、1980年代の小劇場ブームという状況と軽やかに戯れてみせた若き日の野田が、原爆投下と天皇の戦争責任をモチーフにした作品を発表し、このように衝撃的な台詞を生み出すに至ったのは、夢の遊眠社時代から観ているわたしにとっては事件だったのである。

 21世紀に入って以降、野田秀樹の第二次世界大戦以降の昭和史にコミットする姿勢はますます顕著になっていく。『エッグ/MIWA―21世紀から20世紀を覗く戯曲集―』もまた〈知った気になっている過去〉を〈どうでもいい過去〉にしないための1冊といっても過言ではない。

 壊れやすいエッグを7人のプレイヤーたちが運ぶ架空のスポーツを軸に、幻の1940年、開催された1964年、開催予定の2020年という、3つの東京オリンピックをつなげてしまう。そのタイムリーな話題の中心に野田秀樹がどんな劇薬を仕込んでいるかというと、石井部隊の満州における人体実験。日本陸軍第七三一部隊が、全国の優秀な医師や科学者を集め、兵士の感染症予防薬と生物兵器を開発するために中国人などの捕虜に対し非人道的な実験を行った、その史実をフィクションに織りこんだ不穏な戯曲なのだ。

 美輪明宏という実在の人物を扱って昭和を掘り起こす『MIWA』は、言葉遊びや登場人物や設定の重複によって『小指の思い出』(1983年初演)や『半神』(1986年初演、萩尾望都原作)を想起させることで、過去の名作の自己批評にもなっているメタ構造が特徴的。また、ヘルマフロディーテ(無性)とアンドロギュヌス(両性具有)を、ひとつの身体に共棲させているMIWAをはじめ、昭和を代表する有名人を下敷きにした登場人物に重層的なキャラクターを担わせる工夫も。そのことによって、ひとを「Aか、Bか」と問いただす踏み絵的状況の愚を指し示す仕掛けが巧みなのだ。

 自己批評という点では、MIWAがオスカー・ワイルドを心に棲みつかせている三島由紀夫という設定の作家を〈『目の前』で反乱をしなくてはならない人間と『机の上』で反乱を楽しんでいる人間とは違うんです〉と諭した言葉の後の、〈わかってる。『目の前』を現実とよび、『机の上』を妄想と呼ぶんだ。『目の前』も『机の上』も、すぐそこにあるのにね〉〈オスカワさん、それを見間違わないで下さいよ〉というやり取りも示唆的だ。ここに、「妄想(もう、そうするしかない)」を武器に現実と向かいあい続けてきた野田秀樹の自負と自戒を読み取るのは勇み足というものだろうか。

 芝居を観る人はいても、戯曲を読む人は少ない。しかし、同じ作品でも読み手の読解力や想像力によっては別の物語になってしまう点は小説と同じだ。いや、むしろ、それ以上だ。地の文や心理描写がない戯曲は、われわれの読解力と想像力の強度を問うてくる。野田秀樹の戯曲は、「昭和も遠くなりにけり」なんて呑気なことを呟く輩に鋭い切っ先を向けてくるのだ。その挑戦に応えるべく、わたしも刀の鯉口を切る。

新潮社 波
2015年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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