ポスドクの危うい研究生活 松尾佑一『彼女を愛した遺伝子』

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彼女を愛した遺伝子 = The gene that loved her

『彼女を愛した遺伝子 = The gene that loved her』

著者
松尾, 佑一
出版社
新潮社
ISBN
9784103392910
価格
1,540円(税込)

書籍情報:openBD

ポスドクの危うい研究生活

[レビュアー] 今野浩(東京工業大学名誉教授・作家)

 生物学/遺伝子工学の現役研究者・松尾佑一氏が書いたこの小説は、大阪理工科大学の遺伝子機能研究所で博士研究員を務める、純正理系人間の松永洋雄らを主人公とする物語である。博士研究員というのは、博士号を取得したあと、三年程度の任期で雇い主(教授や准教授)の研究を手伝う研究者(ポスドクともいう)のことを指す。

 まともな研究機関に勤めていることからすると、松永は遺伝子工学の分野で、まともな博士論文を書いたものと思われる。しかし、研究者社会の階段を登っていくためには、これから先着実に研究実績を積んで、なるべく早くしかるべき研究機関のパーマネント・ポスト(任期付きでないポスト)を手に入れなくてはならない。

 ところが不運なことに松永は、カリフォルニア総合大学文学部のモーリス・ベントン教授なる奇人が提唱する、“運命遺伝子理論”に出会ってしまう。“人間の運命は遺伝子に刻まれている”というこの理論に天啓を受けた松永は、その正しさを実証すべく、それまでの研究を放擲して、動物実験に取り組んだ。

 理論の正しさに自信を持った松永の前に姿を現したのが、ベントン教授のもとで一卵性双生児に関する勉強を終え、奈良国際大学の修士課程に入学した小野田ハルカさんである。一卵性双生児が似通った人生を歩むケースが多いのは、遺伝子がなせる業であると考えるハルカさんは、松永に相談を持ちかける。

 まもなく松永は、ハルカさんを愛するようになる。ところが運命遺伝子理論を当てはめると、愛が成就する確率はゼロである。では松永は、理論に従って愛を諦めるべきか。

 理工系大学で半世紀を過ごす間に、評者は多くの純正理系人間(理系オタク)と付き合う機会があった。書評を依頼されたのは、彼らと同類だと思われたからに違いない。

 理系オタクのほとんどは、純真で人畜無害である。しかし純真さが災いして、怪しげな研究テーマや、オウム真理教などにハマり込む人もいた。自分の容姿に著しいコンプレックスを持ち、女性運に恵まれない松永は、愛情なるものは単なる化学反応に過ぎないということを示そうとして、運命遺伝子理論にのめり込んだ。

 しかし、このような研究に深入りする松永の将来は暗い。なぜなら、論文を専門誌に投稿しても、“間違いなく”レフェリーから拒絶査定を受ける。専門誌に掲載されない論文は、研究業績とはカウントされない。研究業績がなければ研究費は貰えない。研究費がなければ検証実験は出来ない。実験できなければ論文は書けない。この結果、松永は研究者社会から脱落し、透明人間になる。

 評者はこれまで、妖しくも魅力的な研究テーマ……ノアの大洪水の原因を解明する「灼熱の氷惑星理論」や「巡回セールスマン問題の厳密解法」など……には近づかないように注意してきた。なぜなら松永同様、自分にもこのような研究にハマる遺伝子があることを自覚しているからである。

 研究者の前途には、様々な落とし穴が待ち受けている。そして、ひとたび落とし穴に落ちると、そこから脱け出すのは容易でない。一度ならず落とし穴に落ちた経験がある評者は、松永の行く末を心配しながら、そして奇妙な言説に辟易しながら、この小説を読み進んだ。そして思った。“自分の周囲には、松永ほど純真な人や、松尾氏ほど文才がある人はいなかった”と。

 松永が最終的にどのような選択を行ったかについては、この本をお読み頂くとして、理工系大学を定年退職して、モノ書きに転身した評者としては、国立大学の特命教員を務める松尾氏が、これから先どのようなキャリアパスを進まれるか、大いに気になるところである。研究者の道か、作家の道か、それとも日本ハムのあのスター選手のような、作家と研究者の両刀を使いこなす道だろうか。

 なお松尾氏にはすでに数冊の著書があり、「野性時代フロンティア文学賞」を受賞した『鳩とクラウジウスの原理』は、角川書店から単行本として出版されている。

新潮社 波
2015年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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