【自著を語る】水谷竹秀 つまずき続けた三年間。百人以上を取材して見えた老後の幸せとは?

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【自著を語る】水谷竹秀 つまずき続けた三年間。百人以上を取材して見えた老後の幸せとは?

[レビュアー] 水谷竹秀(ノンフィクションライター)

 去る六月、東京から三重の実家に帰ると母がうつぶせで眠っていました。何か様子が変だと思ったら、すぐ近くのたんすには松葉杖が立て掛けられていました。

 話を聞いてみると、外で転倒して骨盤を骨折し、歩けなくなってしまったというのです。

 しかも全治三カ月。

 転倒したぐらいで……、という私の認識の甘さを痛感しました。母は六十八歳。高齢者はちょっとした転倒でも、骨折に至ってしまうほどに体が弱くなっているのですね。家庭の事情もあってしばらくは私が母の面倒を見ることになりました。近くのスーパーに買い物に行き、食べ終わった食器を洗い、洗濯をするという非日常を体験しました。

 ちょうどその頃、今回の新刊となった『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』の校正作業が迫っていたことも重なり、色々なことが頭を駆け巡りました。

 フィリピンで取材がスタートしたのは二〇一二年四月のことです。このテーマに関係する日本人、フィリピン人合わせて百三十人程度に話を聞きましたが、正直なところ、私自身が老後を強く意識することはそれほどありませんでした。二十代、三十代の頃はまだ遠い彼方のことのように思っておりましたが、四十歳になった今、自分が母と同じような境遇に置かれたら、一体誰が面倒を見てくれるのでしょうか。妻子を持っていないが故に、一気に現実問題として押し寄せてきたのです。

 いつか訪れる老後にどう向き合っていけばいいのか。

 私は普段、マニラに住んでいますが、日本の高齢化社会が発する悲痛の叫び声が、海を越えて聞こえてくることがあります。孤立死、認知症の行方不明者、介護疲れによる殺人事件、ゴミ屋敷……。 

 フィリピンへ渡った高齢者たちも、そんなニュースを見聞きするたびに、身につまされるような思いだったに違いありません。そうして彼らは一人、また一人と日本を脱出したのです。

 二百人の彼女候補者リストを作ったおじさん、歌舞伎町で出会ったフィリピン人女性を伴って移住した元警官、十九歳の妻と息子とスラムで芋の葉を食べて暮らす元大手企業サラリーマン、東日本大震災を機に原発ゼロのフィリピンへ渡った夫婦、九十歳になる認知症の母親をメイドと一緒に面倒見る夫婦、「美しい島」で孤立死した元英語教師……。

 ところが、彼らの実態に迫ろうとすると、「海外で優雅なセカンドライフ」という明るいイメージからはどうしてもかけ離れてしまうのです。もちろん、幸せに暮らす人もいますが、全員がそうじゃない。取材を続けながら、深く悩みました。もしかしたら、海外移住に希望を持つ高齢者たちを裏切ってしまうかもしれない、と。それでも尚、紋切り型の海外移住は描けないという葛藤が続いていました。たぶんそれは、私がマニラに住んでいるからでしょう。これまでに遭遇した様々な在留邦人たちの現実が、海外移住を楽観視することにブレーキを掛けたようです。

 だから何度もつまずきました。転びました。起き上がってはまた転び、たまには立ち止まって考え、後ろを振り返ることもしました。前を向けば視界不良になり、まるで五里霧中を彷徨うかのごとく不安になったこともありました。そうして手探りで少しずつ進み、私なりの海外移住の形を追究してきたのが本書です。

 私が訪れた東京都の団地では、高齢者たちが口々に「居場所がない」と寂しさを漏らしていました。孤立死も起きました。ゴミ屋敷も見ました。日本はいつからこんな社会になってしまったのでしょうか。老後の幸せを考えれば、海外移住という選択肢はありだと思いますが、それが正解かどうかは結局のところ自分が決めるのかもしれません。

 そんな脱出老人たちの生き様を通じて、老後の幸せについて真面目に考えるきっかけになってくれたら、取材した三年間が報われるような気がします。

小学館 本の窓
2015年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

小学館

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