『学術の森の巨人たち 私の編集日記』池永陽一著

レビュー

0
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

『学術の森の巨人たち 私の編集日記』池永陽一著

[レビュアー] 桑原聡(産経新聞社 文化部編集委員)

 ■森の奥で湧く泉の水の味

 西郷隆盛が座右の書としていた江戸後期の儒者、佐藤一斎の箴言(しんげん)集『言志四録(げんししろく)』(川上正光訳注)に《面は冷ならんことを欲し、背は暖ならんことを欲し、胸は虚ならんことを欲し、腹は実ならんことを欲す》という言葉がある。頭は冷静で背中は暖かく、虚心坦懐(きょしんたんかい)に、胆力が据わってものに動じない、そんな人間になりたいものだ、という意である。

 昭和51年に講談社学術文庫を創刊し、以後二十数年にわたり編集に携わった編集者、池永陽一さんが、「学術の森の巨人」との出会いと、一冊一冊がどのように生まれてきたかを記したエッセーを読了して真っ先に思ったのは、一斎の言葉を胸に秘めて池永さんは生き、仕事に向かい、数々の名著を世に送り続けたのではないかということだった。

 「文は人なり」である。池永さんの中庸で謙虚な筆の運びは、「オレがオレが」という書き手がもてはやされるこの時代には珍しい。主役はあくまでも「学術の森の巨人」たちなのだ。はったりのきいた文章に慣らされた者は物足りなさを覚えるかもしれないが、これこそが、森の奥でこんこんと湧く泉の水の味なのだと思う。

 池永さんは胆の据わった愛国者でもある。故郷熊本と母校済々黌(せいせいこう)高校への愛情は、日本への愛情へとつながり、日本の近現代史を学ぼうとする者に貴重な視座を提供する作品を次々に送り出した。朝河貫一『日本の禍機』、徳富蘇峰『終戦後日記』、冨士信夫『私の見た東京裁判』、翻訳ものではシュリーマン『日本旅行記』、クローデル『朝日の中の黒い鳥』…。もちろん守備範囲はそれだけではない。木田元『反哲学史』やソロー『森の生活』の新訳もそうだ。これほどの仕事ができたのは、由良君美さん、小堀桂一郎さん、平川祐弘さん、小塩節さんといった巨人のアドバイスを虚心に受け止め、勉強を喜びとする生き方があったればこそ。そのことが本書を通して生き生きと伝わってくる。ちなみに冒頭に記した『言志四録』も池永さんの仕事で、ロングセラーとなっている。(熊本日日新聞社・1250円+税)

 評・桑原聡(文化部編集委員)

産経新聞
2015年11月29日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

産経新聞社

  • このエントリーをはてなブックマークに追加