リスクを背負った男の破天荒な一代記

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リスクを背負った男の破天荒な一代記

[レビュアー] 鈴木裕也(ライター)

 世界に誇る日本のアニメ文化の“始まり”は「宇宙戦艦ヤマト」だった。それまで一話完結の勧善懲悪モノばかりだったテレビアニメに、キャラクターの人間性や全話を通した物語性、SF的設定を導入し、大人の鑑賞にも堪えられるものにした画期的作品だった。本書は、この伝説の作品を陣頭指揮したカリスマプロデューサー・西崎義展の一代記である。

 裕福な家庭に生まれ、父との葛藤を抱えたまま俳優を志して挫折した男が、押しの強さと口八丁で企画を売り込み、「悪党」と呼ばれながらものし上がり、やがて映画版「ヤマト」の成功で莫大な富を得て“時の人”となる。その前半生は希代の成功物語と言っていい。ところがここからが一気に転落人生である。愛人や贅沢に浪費を重ね、プロデューサーとしても失敗の連続で、ついに破産。漫画家・松本零士との「ヤマト」著作権をめぐる法廷闘争、覚醒剤取締法違反や銃刀法違反等で服役するなど、まさに波乱万丈の人生、面白くないわけがない。

 だが本書の読みどころはそれだけではない。西崎という存在を通して見える「文化のダイナミズム」のあり方だ。

 アニメの製作には莫大な資金がかかる。そのため当時は手塚治虫でさえも経費節減のためコマ数を減らしたアニメを製作していた。しかし、西崎は「ヤマト」において、常識外れの資金を投入した。すべて自分の才覚で集めた資金である。当たれば儲かるが、ヒットしなければ莫大な借金を抱えることになる。そんなリスクをすべて一人で背負う個人プロデューサーだからこそ、独断専行が可能だった。作品作りにこだわることができたのだ。

 あらゆるビジネスにおいてリスク回避が優先され、企業内役職としてのプロデューサーばかりが増える昨今、西崎のような個人プロデューサーを「絶滅危惧種」にしてよいのか。西崎の裁判中に、作詞家の阿久悠が東京地裁に提出した情状酌量を求める嘆願書が、そうした思いをあますところなく綴っていて、胸を打つ。

新潮社 新潮45
2015年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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