憲法に依存せず日本を考察する

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成長なき時代のナショナリズム

『成長なき時代のナショナリズム』

著者
萱野稔人 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784040820477
発売日
2015/10/08
価格
880円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

憲法に依存せず日本を考察する

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

「日本の言論界ではナショナリズム批判だけでなく、国家批判をすることが知的でスマートな姿勢だと無前提に思われている」

 太鼓やラップのリズムに彩られ、騒々しかったこの夏が終わった後に、『成長なき時代のナショナリズム』を読むのは格別な読書だった。横行する憲法本位、感情過多の議論が「哲学者」萱野稔人の手でばっさり整理される。リアルに再構成された日本と世界の現実が、容赦なく再提出される。負の側面を常にカウントしながら検討されている思考の測量は、固い地盤にまで達している。安心して読める。せめてこの本の中に込められた態度が共有されていれば、あの虚しさは免れ得たのではないだろうか。

「集団的自衛権について考えるなら、私たちは二〇三〇年の世界の勢力地図をイメージしながら議論をすすめなければならない」

 二〇三〇年とは、中国がGDPや軍事費でアメリカを抜くとされる、すぐにやってくる未来だ。その時生じ得る、北東アジアの「力の空白」を、軟着陸に導くにはどうするか。不安定化を避ける軍事力や外交努力はあるのか。いずれにしても、一定の「力の論理」は必要であり、「力の論理」をかえりみない平和主義では外交の土俵にものぼれない。「日本の平和主義を鍛えるという意味でも、いかに「力の空白」に対処するかを私たちは考えるべきなのだ」。

 覇権の移動は、あっさりとは行われない。イギリスからアメリカへの覇権の移行には半世紀を要した。アメリカがGDP第一位になったのは十九世紀の末であった。「この覇権の交代期に日本は判断を大きく見誤った」というのが著者の苦い認識である。その結果、日本は戦勝国側に管理される立場になる。「憲法9条はその一つの痕跡である」。判断を誤れば「冷や飯を食わされることを、日本人は身を以て知っているはずだ」。

「9条冷や飯論」とも読める(著者はそうは断定していないが)美味しい説は、リベラル派にはお気に召さないだろう。マッカーサーから配給されたほっかほかの炊き出しが憲法9条だと信じているのだから。

 著者は議論の中に憲法を持ち込まない。憲法抜きで議論を組み立てていく。デビュー作の『国家とはなにか』(以文社)以来、国家とは暴力を独占し、法的判断を独占し、一元的に管理するものとして捉えられている。暴力を独占している国家が剥き出しの暴力を抑え込む役割も果たしている。ホッブス、スピノザ以来の国家と暴力への視線で、自らの哲学を構築している。だから、暴力という現実を徹底的に回避して綴られた憲法には、信を置いていなくて当然なのだ。国家間の暴力が対峙する国際社会を論じるのにも、憲法は役に立たない。

 憲法に依存せずに、素のままでいまの日本を考察すると、何が見えてくるか。これが、本書の全体を貫くテーマであろう。

 成長がとまり、パイが拡大しない社会であるという日本の現実を承認すれば、偏狭だと批判されるナショナリズムも違って見えてくる。ネットウヨクや排外主義の動きを(私自身はこれらが過大に取り上げられ過ぎているといぶかっている者だが)、道徳的に批判して事足れりとしていいのか。そういう人に限って、財源のあてもなく社会保障の拡充を呑気に主張しているだけではないのか。「社会的パイが縮小し、枯渇しているという問題に敏感な人が右傾化していると考えなくてはならない」。

「ナショナリズム=悪」という図式を自明のものとしているリベラル派知識人やマスコミへの批判も厳しい。ヘイトスピーチや移民排斥だけがナショナリズムなのではない。リベラル派の主張する国民主権の原理が、ナショナリズムの原理そのものであることを歴史学者ゲルナーの定義にさかのぼって展開している。ナショナリズムを批判したつもりになっても問題は片付かないのだ。

「国益」という言葉は本書のキーワードのひとつになっている。たとえば、「ナショナリズムの問題は、それが激化してしまうと国益そのものも裏切ってしまいかねないという点にある」といったように。安倍首相の靖国参拝は「国益」という観点から批判される。中国や韓国に格好の口実を与え、欧米からも批判された安倍首相の心情優先を、「国益を冷静に見極められる合理性」に引き戻さなくてはいけないと。

 この議論は、本書の別の記述と突き合わせると感慨深い。第一次安倍政権が掲げた「戦後レジームからの脱却」についてである。著者は理論的には、二つの可能性しかないと言う。一つは「主要戦勝国のどこかと戦争をして、勝者の側にまわる」だが、これは選択肢として、まずあり得ない。もう一つは、「いまの戦後体制のもとで認められることで、管理される立場から管理する立場へと移行する」という可能性で、これを追究するしかない、と。それには「愛国者ほど愛国心の落とし穴に自覚的であるべきだ」と。

 こうして、世界の戦後体制の中でがんじがらめになった日本の姿が否応なく浮んでくる。それはうんざりとしてくるほどだ。永遠の敗戦国として手足を縛られた半巨人の国だ。むしろ希望の匂いは、すべての人に無条件で現金を給付するという「ベーシック・インカム」政策を批判したところにあった。「仕事をつうじた社会参加」の確認を重視し、安直な福祉政策を批判する。ここに著者の日本人への信頼を見た。

新潮社 新潮45
2015年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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