家の存続をかけて、綱渡りのように、もがき、 人生を生き抜いた武将たち 【特別対談】黒田基樹×眞田幸俊「真田昌幸、信幸、信繁」

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【特別対談】黒田基樹×眞田幸俊「真田昌幸、信幸、信繁」

[文] 小学館

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家の存続をかけて、綱渡りのように、もがき、人生を生き抜いた武将たち

二〇一六年一月にスタートするNHK大河ドラマ「真田丸」の放送を前に、続々と真田家関係の書籍が発売されている。大河ドラマ「真田丸」の時代考証担当のひとりである戦国時代研究の第一人者黒田基樹氏と、松代真田氏の十四代当主である眞田幸俊氏が、今もって人を引きつける真田家の魅力を語る。

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眞田 このほど黒田先生が書かれた『真田昌幸 徳川、北条、上杉、羽柴と渡り合い大名にのぼりつめた戦略の全貌 』を拝読しました。非常に細かく史料を調べた内容で、子孫として大変参考になりました。昌幸は様々なエピソードがある人物で、後から創作された話と、史料に基づいた話との区別が難しいのです。

黒田 大河ドラマ「真田丸(さなだまる)」の主人公は真田信繁ですが、物語の前半は父親の昌幸を中心に動きます。昌幸は「表裏比興(ひょうりひきょう)」と言われるように、仕える主君、帰属先の大名を次々に替える人物ととらえられていました。しかし、あらためて執筆のために調べると、昌幸はまるで綱渡りのように身を処し、博打のように打った手が全部あたり、何とか生き残ったという印象を受けました。

眞田 私も同様の感想をもちました。周囲を強大な大名に囲まれて、よく生き残ったものだと思います。

黒田 あの時代は家を残すのが一番の仕事でしたからね。

──真田家が生き残りをかけてもがいた逸話としては、天下分け目の関ヶ原合戦での「犬伏(いぬぶし)の別れ」が有名です。昌幸と次男・信繁(幸村(ゆきむら))は石田三成(いしだみつなり)の西軍、長男・信幸(のちに信之と改名)は徳川家康の東軍につきました。

黒田 「どちらかが生き残れるよう、あえて話し合って東西両軍に分かれた」と伝えられていますが、実際には喧嘩(けんか)別れだと思うんですよ。真田家のいちばん古い史料である『滋野世記(しげのせいき)』にも、別れのあとに昌幸が「まあこれも家のためになるから仕方ないか」と言っていたと書かれています。

眞田 信幸は徳川重臣の本多忠勝(ほんだただかつ)の娘を奥さんにもらい、弟の信繁は三成の盟友、大谷吉継(おおたによしつぐ)の娘を奥さんにもらっている。時の勢力に翻弄されながら、なんとかしがみつこうとしたのでは。策略というよりも、そういう運命だったような気がします。

黒田 豊臣時代の真田家は、実は三成とべったりだったんです。真田家文書のなかに、三成から信幸宛の書状が何通も残っていて、非常に親しい関係だったことがわかります。そういうしがらみがありながら、信幸が徳川方につく決断をしたのが私にはおもしろく感じられます。

──関ヶ原の結果、昌幸と信繁は九度山(くどやま)に配流となり、徳川についた信幸が松代藩の藩祖になりますね。

眞田 はい。信州は今でこそ長野が中心になりましたけれども、江戸時代までは、松代(旧松代町、長野市に合併)が中心でした。地元としてはぜひ信幸のことも取り上げていただきたいと思っています。

黒田 家康は信幸を高く評価していたので、昌幸の所領だった上田(うえだ)領を引き継がせます。関ヶ原のときに戦場となった上田領は荒廃し、それを信幸は一生懸命復興している。収穫期に戦争をしたので、あの年はまったく収穫がないはずです。おそらく信幸が、もともと支配していた沼田(ぬまた)領の財政から支出して上田領を救ったのでしょう。

眞田 なるほど。

黒田 また、信幸は配流された昌幸と信繁の生活費の面倒をみることになって、大変だったと思うんですよ。

──しかも、昌幸の病死後、豊臣方に誘われた信繁は九度山を抜け出し、大坂夏の陣、冬の陣では家康を追いつめるほど奮戦します。

眞田 信幸は当然、大坂城を攻める徳川方です。全部を背負い、後始末で大変だったと思います。以前に九度山に行ったことがありますが、非常に厳しい自然条件で、信繁は、あそこでこのまま生涯を閉じるよりも、武士としてもう一花咲かせたいと思ったのでしょうね。

黒田 十一年間も九度山にいて、信繁は三十代から四十代になってしまい、先が見えずに大変だったでしょう。そんなときに豊臣方に誘われ、「行こうかな」と思っちゃったんじゃないですかね。

眞田 それはそうだろうと思いますよ。「兄上、ごめん」という感じでしょうか(笑)。

──今度の大河ドラマは、信繁を堺雅人(さかいまさと)さん、昌幸を草刈正雄(くさかりまさお)さんが演じられますね。

黒田 草刈さんのちょっとコミカルな雰囲気が、昌幸に合っている気がしますね。昌幸は勘で動いているようなところがあるので。

眞田 うまく人の懐(ふところ)に入り込むというか、知らないうちに周りをまとめていくしたたかさを、草刈さんは人間の味として出してくださりそうです。

黒田 主役の信繁に関する史料は非常に少なくて、大坂城から親戚らに送った「もうこの世の中は終わりだ」みたいな書状くらいしか残っていないんですよね。

眞田 信幸が信繁について述べた史料には、わりに物静かな人物だったというふうに書いてあったのを読んだことがあります。そして、自分よりも天下をとるにふさわしい武将であったと。でも、浪人で、今まで一度も戦の指揮をとったことがなかった信繁が、いきなり大坂で大活躍をするというのは不思議と言えば不思議です。どのように一癖も二癖もある豊臣方の浪(ろうにん)人衆をまとめたのか。

黒田 史料がほとんどないので、信繁の個性や能力に還元しがちです。しかし本書で指摘したように、父昌幸は、自治権をもちながらも戦国大名に従属する「国衆(くにしゅう)」から戦国大名へと成長していった人物です。その子としてふさわしい教育なり、訓練なりを信繁も受けていたはずです。だからこそ、大坂の陣でも活躍できたのでしょう。

──軍才に優れた父・昌幸の存在は大きいですよね。

眞田 昌幸は、北に上杉景勝(かげかつ)、南に徳川家康(とくがわいえやす)、東に北条(ほうじょう)氏と大国に囲まれ、極限の状況で自分たちの所領を守り切ったんですから。

黒田 「真田丸」は、まさに、真田家が仕えていた武田(たけだ)氏の滅亡から始まるのですが、国衆から大名へと成長する動きがとても重要になってきます。

──大河ドラマで松代も盛り上がっているのでは?

眞田 十月に開催される恒例の「松代藩真田十万石まつり」は、二〇一五年は大河に出演する大泉洋(おおいずみよう)さん(真田信幸役)と吉田羊(よしだよう)さん(妻・小松姫(こまつひめ)役)に参加していただき、例年以上の観光客が訪れてくれました。

黒田 真田氏の史料を展示する真田宝物館にもみんな行くでしょうね。真田家文書を調べていたら、日常的な書状もたくさん残っていて、豊臣時代のもので「風呂を焚(た)いておいてほしい、自分のところでは水がなくて焚けないので」などと書いてあるものもありましたね。

眞田 「今日のおかずはなんだ」とか、そういう書状も膨大に残っています(笑)。松代藩の貴重な財産です。

黒田 そういう日常的な史料はなかなか残らないので、大名がふだん何をしていたのかがわかっておもしろいです。ドラマなどに取り上げられると研究が進むことがあるんです。「うちにもこういうものがあるんですが…」と新しい史料が出てくることが少なくない。

眞田 なるほど。大河ドラマは、研究が進展する意味でもいい機会になりそうですね。

(司会:安田清人 構成:高橋亜弥子)

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黒田基樹(くろだ・もとき)
1965年生まれ。駿河台大学教授。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。膨大な史料を博捜し、戦国史の実相を明らかにする研究に精力を注いでいる。2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を務める。著書に『百姓から見た戦国大名』ほか多数。

眞田幸俊(さなだ・ゆきとし)
1969年生まれ。慶應義塾大学教授。カナダ・ビクトリア大学大学院修了、慶應義塾大学理工学部博士課程修了。工学博士。大学教授としてブロードバンド無線システムの研究や学生の指導に取り組み、松代真田氏14代当主として長野県・松代のために活動している。

小学館 本の窓
2016年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

小学館

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