【自著を語る】人は誰しも劣等感にとらわれている

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【自著を語る】人は誰しも劣等感にとらわれている

[文] 枡野俊明(曹洞宗徳雄山建功寺住職、庭園デザイナー、多摩美術大学環境デザイン学科教授)

 編集担当の酒井綾子(さかいあやこ)さんから「劣等感」というテーマをいただいたとき、真っ先に頭に浮かんだのはわたし自身の子どもの頃のことでした。劣等感だらけ。早生まれだったため小学校に入学した際も身体(からだ)が小さく、成績もふるいませんでしたし、家も寺ですから築二百五十年という古さで、同級生たちの生活環境とはまるで違う。なにしろ、水も井戸からくみ上げる、トイレは別棟にあり、お風呂のシャワーなんて見たこともない、という塩梅(あんばい)です。子どもながらに、「みんなは洒落た暮らしをしているんだなぁ」という思いがあって、それも劣等感になっていました。

 そんな経験からもいえるのですが、人は劣等感にとらわれやすいものだと思うのです。年代や自分を取り巻いている環境にかかわりなく、どこかで劣等感を持ちながら生きている。そうだとすれば、これは一度、真正面から取り組んでみる意味があるテーマではないか。そう考えたことが今回の企画をお引き受けした理由です。

 人には誰にでも得手、不得手というものがあります。その不得手の部分が劣等感につながるのです。不得手は克服するのが難しい。ですから、誰もが劣等感と無縁でいることはできないのです。

 また、現代社会は高度に情報化が進み、知らなくてもいい情報も入ってきてしまいます。たとえば、「三十代でこんなに稼いでいる人がいる」「四十代になったら社内でこのポジションについているべきだ」「五十代でこのくらいの蓄えがないと老後は安心して暮らせない」……という具合です。

 情報を知れば、どうしても自分の状況とそれを比較することになります。その結果、“そうでない自分”“そうできていない自分”を感じてしまうわけです。そのことも、劣等感を増幅させている気がします。つまり、この時代の社会の在り様が劣等感にとらわれやすいものになっているのです。

 そこで必要になってくるのは、劣等感とどう向きあい、つきあっていくか、ということでしょう。劣等感をなくすことはできなくても、うまくつきあっていくことができたら、ずっと生きるのがラクになりますし、前向きにもなれるはずです。

 わたしは禅僧ですから、本書では禅の教えをもとに劣等感との向きあい方、つきあい方を考えてみました。わけのわからない会話の喩(たと)えに「禅問答」という言葉が持ち出されることもあって、禅には小難しい、ややこしいという印象があるかもしれません。

 しかし、「禅即行動」という言葉があるように、禅がもっとも重んじているのは実践なのです。“誰もが”“すぐに”“できる”。本書にあるさまざまな劣等感との向きあい方、つきあい方は、すべてその禅の“本分”に沿っています。

 日常的に雑多な情報に取り囲まれている現代人は、誰もが劣等感と隣り合わせで生きている、といっていいかもしれません。

 本書には、そんなみなさんの心を少し軽くする、気持ちを少し前に振り向けるヒントが詰まっている、とひそかに自負しています。

 どこからでもいい。まず、ひとつ実践してください。実践は学びです。その学びを積み重ねることによって、劣等感を包み込んでしまう、しなやかな心をつくっていただきたい。それが筆者としての心からの願いです。

小学館 本の窓
2016年1月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

小学館

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