『悪名残すとも』
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哀しみの武将を描き切った傑作
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
眠気がいっぺんで吹き飛んだ。
ページを繰る手に力が入った。
間違いない、これは現時点における吉川永青の最高傑作ではないか――。
作者はいう。
主君押し込みも下剋上も戦乱の世では是とされる。この主君では滅ぶのを待つのみと思えば、家臣が結託して隠居に追い込み、或いは誰かが起って討ち果たすのが常だ。謀叛される方に非がある――生死の狭間に日々を過ごす、殺伐とした世ならではの習いであった。
と。
主人公は、若き大内家筆頭家老・陶尾張守隆房である。そう、主君である義隆を自刃に追い込み、主家を乗っ取ったという“悪名”にまみれた男である。
作品は二つの視点を持っている。
一つは、隆房と毛利元就との交誼と離反。
もう一つは、隆房と義隆を堕落させていく奸臣・相良との暗闘である。
そして後者は前者の中に入れ子型となって組み込まれている。
まず前者からいえば、元就ははじめて隆房と会見した時に、この若者が西国を束ねた次には京に上がり、公方を救けて、天下の安寧を築く旨を望みとしていることを知り、その器の大きさを知る。
但し、後々、元就の不安材料となるものがはやくも二つ提示されている。
一つは、隆房の思いがあまりにも真っすぐなこと。いま一つには、天下というものをあくまでも〈大内〉を通して見つめていることである。
あの隆房の志を、いや、大内家を危うくするのが、前述の奸臣・相良である。
戦も知らず、「御家形様におかれましては、山口で歌など詠まれ、まずはお心を落ち着けなさるのがよろしいかと。戦は後々、尼子が弱ったところを一気に滅ぼせばいいのです」とうそぶき、嫡子を失った義隆を腑抜けにし、あまつさえ、その義隆の側室と不義密通をはたらいたかもしれない男――その何と憎々しげなことか。
本書の相良は、最近の戦国小説の中の最大の敵役といっていいほど彫りの深い印象を結んでいる。
ちなみに、作者がテーマをしぼるために、尼子を描かずして描くという手法を用いているのは秀逸といえよう。
そして隆房は、もはやこのままでは大内の家が危ういと判断、主君を押しこみ、相良の謀殺をはかるが、一度目は、仲間の裏切りにあって失敗。そして満を持した二度目に、泣く泣く義隆を自刃に追い込み、鎌倉以来、三百年続いた大内の嫡流を絶ってしまうことになる。
しかし、隆房はあくまでも〈大内〉という枠組みにこだわろうとする。
ここに、そのことに危惧をおぼえた男が一人いる。
毛利元就である。
手ぬるい――。「隆房が周防一国の主となり、毛利と手を携え、そこから西国のあり方を改めねば何も変わらない。無論、それで各国は大いに混乱する。再びまとめ上げるのにどれほどの時と労を尽くせば良いのか、皆目見当も付かない。しかし、そうした労苦あってこそ、戦乱という混沌は新たなる世の母胎と――」。
視野狭窄に陥った隆房と、巨視的な視座に立つ元就。
この違いがやがて二人を最後の戦場、厳島に向かわせる。
作者の文体は、この二人の男の去就を描いて堂々たる風格を保ち、粛然として男子の鉄腸をひきしめる。
この作品で、吉川永青は明らかに次のステージに立ったことは間違いない。
そのスケール、人間観照の深さに私は心からの拍手を送るものである。