とぼけた声で、でも 真摯に日本語を考える

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不明解日本語辞典

『不明解日本語辞典』

著者
高橋, 秀実, 1961-
出版社
新潮社
ISBN
9784104738052
価格
1,540円(税込)

書籍情報:openBD

とぼけた声で、でも 真摯に日本語を考える

[レビュアー] 大竹昭子(作家)

『ご先祖様はどちら様』『弱くても勝てます』などの著者、髙橋秀実(ひでみね)は“考える人”である。世の中が当たり前だと思っている事柄の前で立ち止まり、首をひねる。

 今回の相手は言葉だ。「普通」「スッキリ」「すみません」など、日常でよく使っている三十二語を取り上げ、考え、調べる。最初の言葉は「あ」。人に電話をかけて留守番電話だと「あ、髙橋秀実です」と吹き込んでしまう。「髙橋秀実です」でいいのになぜ「あ」と付けてしまうのか?

 そのうちに漢語と和語では自分の反応が異なるのに気付く。例えば「意見」は漢語だが、賛成か反対か「意見」を求められると「身をさらわれるかのように体系に呑み込まれていく」。二者択一では返答できない事柄に、ちがうなあと思いながら身を合わせるから心が置き去りにされるのだ。

「ちがう」は和語だが、ある時から「違う」と漢字を当てるようになり、意味が転じた。「違う」はミステイクの意味だが、「ちがう」は「ち=方向」が「かう=交う」で交差した状態をさす。漢語は体系化に、和語は状況説明にむく言葉なのかもしれない。そして状況を前に立ち止まって考えずにいられない著者はきわめて「和語」的人間なのである。

 こうして言葉の意味を究めていくにつれ言葉が使いにくくなるのを発見、その原因を彼は「言葉に意味がひそんでいる」という思い込みにあったと結論する。言葉のなかに意味が「ある」のではなく、言葉は発するときに意味を「なす」のだ。つまり意味は未来にむかって無限に開かれており、だから「言ってみなければわからない」し、私たちが対話をする意義もそこにあるわけだ。

 読みながらふと思った。世間は意見意見と言うけれど、そういう言い方はやめて「言葉にして言ってみましょう」と「和語」で呼びかけたらどうだろう。そのほうが良い「意見」がするっと出るかもしれない。

新潮社 週刊新潮
2016年1月21日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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