【教養人のための『未読の名作』一読ガイド】金と銀 [著]谷崎潤一郎

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潤一郎ラビリンス 10 (分身物語)

『潤一郎ラビリンス 10 (分身物語)』

著者
千葉 俊二 [著]/谷崎 潤一郎 [著]
出版社
中央公論新社
ISBN
9784122033603
価格
905円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

【教養人のための『未読の名作』一読ガイド】金と銀 [著]谷崎潤一郎

[レビュアー] 渡部昇一(上智大学名誉教授)

 一中・一高・東大と言えば日本一の秀才コースであった。谷崎潤一郎はこのコースを通った秀才である(もっとも東大は中退)。しかも単なる秀才でなかった。この秀才コースの同級生で東大のフランス文学の教授になった辰野隆は、谷崎のことを「天才」と呼んでいるのである。辰野の弟子には小林秀雄、三好達治、中村光夫、中島健蔵というような秀才が沢山いた。その辰野が敢えて谷崎を天才と呼んでいるのだ。生徒・学生時代の谷崎の文章は秀才コースの同級生を遥かに超えていたからである。

 谷崎が自分の幼少年期の体験を流し込んで書いた傑作が『神童』である。三十歳の谷崎が、自分の神童体験をタネにした特異な小説であるが、私が面白いと思ったのはこの神童春之助が十三歳になった正月に「ボーン書店古典叢書」に入っているプラトン全集六巻を手に入れ、手足がぶるぶると顫えるほど、喜び昂奮して読んだことである。最初に彼をプラトンに引き込んだのは『テイマイオス』の中で、ソクラテスが「時間」と「永遠」を論じているところだったというから、この十三歳の少年は正に神童であり、それはその年頃の谷崎の体験と結びついたものであろう。

 では、このプラトン体験は谷崎の後の作品にどのように出ているだろうか。

 それは彼が三十三歳の頃に発表した『金と銀』(大正七年)に露骨なほど明瞭に示されている。話の筋は天才的な画家青野と、その才能を讃嘆し嫉妬する大川という画家の物語りである。大川は青野の天才を知るたびに、青野が生きている限り自分の才能は開けないと感じ、寝ている青野を絞め上げ、大きな鉄の火箸で殴り殺すのだ。

 しかし青野は死ななかった。白痴になっただけで、脳髄は死ななかった。痴人になった青野の瞳は意味深く光っていた。「私の魂は今でも立派に藝術の国土に遊んで居ます。(中略)ただ、内部の魂を外部の肉体へ伝達する神経を絶たれただけなんです……」ここの叙述に谷崎のプラトンのイデア論の理解と応用が端的に示されていると言えよう。

新潮社 週刊新潮
2016年1月28日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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