『坂の途中の家』
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乳幼児虐待死事件の闇が迫る新たな代表作
[レビュアー] 小山太一(英文学者・翻訳家)
自分の周囲で酸素が少しずつ希薄になってゆくような、息苦しい読書体験。それでも、一気に読み通さずにいられなかった。
よく似た感覚を抱かされた小説が前にあったな、と考えて、あれか、と思い当たる。シャーロット・パーキンズ・ギルマンの有名な短編「黄色い壁紙」だ。ひとりの女性がなにものかに魅入られたように精神の平衡を失ってゆく展開、読んでいるこちらが叫びだしたくなるほどの閉塞感。たしかに共通するものがある。
ただし、「黄色い壁紙」はどちらかと言えばアイディア一発勝負の短編、『坂の途中の家』は四百ページを超える長編である。手の込んだ陰険さの度合では、乳幼児虐待死事件の補充裁判員(「補欠」的な存在だが、最初から裁判に出席しつづけなければならない)に選ばれてしまった主婦を主人公とするこの作品のほうがはるかに上だ。
言うまでもなく、小説にとって陰険さはひとつの美徳でありうる。現今の日本語小説において、それがこの作品ほど効果的に発揮されている例を私は他に知らない。
ストーリーラインはシンプルだ。幼い娘のいる主婦・里沙子は、同じように幼いわが子を風呂の水に落として死なせた主婦・水穂の裁判に関わるうちに、水穂の事件を自分が起こしたとしてもおかしくないという思いを抱くようになってゆく。それだけと言えば、それだけである。しかしここでは、「それだけ」の語りになんと企みが充ちていることか。小説のナレーション、証言内容の再現、そして里沙子の世界認識の三者が意図的に境界をぼかされつづける中で、彼女の家庭生活を平穏に見せていた遠近法は徐々に掘り崩されてゆく。入り組んだ形の密室が、ゆっくりと姿を見せはじめる。
この小説の密室は、ギルマンの「黄色い壁紙」で主人公が夫に〈保護〉される療養室よりはるかに広く、脱出を阻む壁も目には見えない。だが、透明で屈曲したこの壁は、語りが向かう先々で不意に存在を主張する。通り抜けられる空間だと思っていたらガラスの壁があって、頭を思い切り打ちつけてしまったときのあの痛みとともに。ガラスとの衝突は繰り返し起こるのに、いつ、どうして起こるのかが分からない。恐怖と無力感が、じわじわと募ってゆく。
この密室に入り込んだ読者は、ちゃんと日常へ帰還できるのだろうか。私は先刻からずっと、自分の身体が密室の壁と同じガラスでできているような気がして落ち着かないのだが。