かつて日本人が持っていた潔さ

レビュー

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五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後

『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』

著者
三浦 英之 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784087815979
発売日
2015/12/15
価格
1,836円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

かつて日本人が持っていた潔さ

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

 日本寮歌祭という行事があった。デカンショ気分で寮歌を高唱して、老人たちが旧制高校生気分に戻るお祭りで、テレビでも毎年放送されていた。本書『五色の虹――満州建国大学卒業生たちの戦後』を読んでいて、あの昂揚する元青年たちの姿を思い出した。

 旧制高校はGHQの教育改革によって廃校に追い込まれたが、本書の主題である建国大学は、それよりも以前、日本の敗戦によって強制終了となった。幻の「アジアの最高学府」(創設を主導した石原莞爾の構想)である。満洲国の首都・新京に開校したのは昭和十三年であるから、わずか十年足らずの短命な歴史だった。満洲国のスローガン「五族協和」そのままに、日本、中国、朝鮮、ロシア、モンゴルの五つの民族の優秀な若者たちが寮生活で切磋琢磨しながら学んだ。寮内では徹底的な言論の自由が保証され、図書館ではマルクス主義文献も自由に読めるという環境だった。日本人学生は半分以下に抑えられていた。

「同世代の若者同士が一定期間、対等な立場で生活を送れば、民族の間に優劣の差などないことは誰もが簡単に見抜けてしまう。彼らは、日本は優越民族の国であるという選民思想に踊らされていた当時の大多数の日本人のなかで、政府が掲げる理想がいかに矛盾に満ちたものであるのかを身をもって知り抜いていた、極めて希有な日本人でもあった」

 出身者は千四百人、そのうち生存が確認されているのは三百五十人に過ぎない。日本人以外の出身者の多くは、日本敗戦の混乱の後に、「日本の帝国主義への協力者」というレッテルを貼られ、逮捕、自己批判、強制労働、処刑などの過酷な運命が待ち受けていた。満洲国と建国大学の掲げた「理想」は、いまも個々人の人生に現在形で押しかぶさっている。それゆえに、寮歌祭の如くノスタルジーに浸ることは決して許されない。近代史の疵跡が生々しく疼いていることを伝える本書は、貴重なノンフィクションである。

 著者の三浦英之は朝日新聞の記者で、本書で開高健ノンフィクション賞に応募し、受賞している。読み応えあるノンフィクション作品の書き手が往々にして、新聞記者かテレビディレクターということになって久しい。長期にわたって取材した記事や番組の“後産”として、本が書かれる。それはそれで有難いのだが、二次産品を読んでいるという不満が残る。雑誌ジャーナリズムの体力低下がそれに輪をかける現状がある。本書を手に取った時にも、そうした感想が頭をもたげた。しかし、読み進めていくうちに、これは違うなと思い直した。

 著者が二〇一〇年に新潟支局から立川支局に転勤したことから話は始まる。著者のその経歴を聞き知った人物から支局に電話が入る。ネタになりそうもないという躊躇がまず襲う。それでも会ってみると、中央アジアのキルギスに日本兵抑留記念館を作ろうとしている人物だった。抑留経験者が新潟にいる、インタビューしてみませんか?

 著者は電話取材ではなく、面会取材にこだわる。「過去、特に戦時中に起きた出来事については、その事実の裏付けの難しさからどうしても誇張やフィクションが紛れ込んでしまう」ことを警戒するからだ。ここではまったく触れられていないのだが、吉田清治証言に基く朝日の「朝鮮人慰安婦狩り」報道を思い起こさずにはいられない記述である。

 新潟で会った八十五歳の老人は、今もロシア語を学び続けていた。日本にとっての脅威は依然としてロシアである、という信念を老人は披瀝する。「私はこれでも建大生(ケンダイセイ)の端くれですから」。初めて耳にした建国大学の名、ここから取材がスタートする。

 国内取材はともかく、中国、モンゴル、カザフスタンなどの諸国は新聞社の推薦状がない限り、取材ビザを発行しない。著者は「自分でもびっくりするほど積極的に――そして他人から見ればかなり執拗に」関係部局に働きかける。支局長も企画を売り込んでくれる。記者個人の「持ち込み企画」は、三週間で六つの都市を回るという「破格の待遇」で実現することになる。夕刊の紙面で四回の連載というのが、多いのか少ないのかは私にはわからない。私にわかるのは、この取材が著者にもたらした果実の大きさだ。

 取材は通常の基準でいえば、必ずしも成功したとはいえないものだった。まず大連で会った中国人は、反満抗日運動の首謀者で、治安維持法で逮捕された闘士だった。水責めの拷問で肺結核を患い、判決は無期懲役だった。敗戦によって釈放され、その後は中国共産党の批判者となる。大連での取材中、共産党にとって都合の悪い部分に話が及ぶと、突如取材は中断される。半生を綴った文章を日本に送ると約束して別れるが、連絡は途絶える。次の取材地・長春(もとの新京)では取材そのものが中止になる。

 著者は「不都合な事実は絶対に記録させない」という中国政府の意志の向こうに、「記録したものだけが記憶され」、「一度記録にさえ残してしまえば、後に「事実」としていかようにも使うことができる」からくりを垣間見る。建国大学の日本人学生たちは思想改造所に送り込まれ、強制的に書面を書かされた人たちでもあった。

 行く先々で突き当たる取材の困難。「権利で守られすぎている日本で育った脆弱な私」に彼らの苦難は理解できるのだろうか、という地点に著者は立たされていく。「潔さ」という気質を持ったかつての日本人の姿を知り、いまの日本の発見に繋がる旅は、かくて続いていく。

新潮社 新潮45
2016年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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