『明治の建築家伊東忠太 オスマン帝国をゆく』 ジラルデッリ青木美由紀著

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『明治の建築家伊東忠太 オスマン帝国をゆく』 ジラルデッリ青木美由紀著

[レビュアー] 柴田文隆(読売新聞社編集委員)

視点を転換させた旅

 伊東忠太のことは気になっていた。路上観察や建築探偵の活動でも知られる建築史家・建築家の藤森照信さんから以前、「ロバに乗ったりしながら中国、インドを経て、ギリシャまで、一人で見聞して回った変な人よ」と聞いていた。藤森さんのような人が太鼓判を押すのだから相当な変人なんだろう。興味を持ったが、そのままになっていた。

 伊東は、東京駅の設計で有名な辰野金吾の愛(まな)弟子で日本最初の建築史家。20代半ばで、法隆寺が世界最古の木造建築であることを検証。さらに、中央部分がわずかにふくらんだ列柱の原型はギリシャ神殿のエンタシスにあるとする説を唱えた。その底流には、中国や日本の建築を無視していた西欧中心主義に対する明治人の反発もあったのだろう。

 1902年3月、自説の証拠を求める彼は3年3か月に及ぶ留学に旅立つ。北京、西安からカルカッタに入り、04年5月、オスマン帝国に到着。現在のギリシャ、エジプトなどの建築を見て回り、悲願のギリシャ神殿を目にする。ところがエンタシスにほとんど言及せず、「日本への伝播(でんぱ)」にも触れていない。オリンポスのジュピター神殿を「我ガ法隆寺ノ柱ト同ジ意匠ナリ」と分析するが、自説の証拠とはしなかった。どうした忠太。著者はこの冷静さの原因を、<旅の途中でエンタシスの経路以上に重大な関心事ができたのではないか>と推測する。

 帰国後の彼は思索を深める。世界の建築の歴史は西欧を中心・源流とする直線的な流れだけで説明できるものでなく、東洋を含む複数の文化が重なり合う相互関係としてとらえるようになる。この視点の転換は、帝国内での多様な建築の見聞によって熟成されたものだった。

 建築家には絵のうまい人が多いが、伊東も例外でなかった。帝国滞在中の野帳(フィールドノート)にはトルコ人の鼻の角度一覧や、温泉の様子など異国の風俗もが生き生きと描かれていて、楽しい。

 ◇じらるでっり・あおき・みゆき=1970年生まれ。美術史家。イスタンブル工科大非常勤准教授補。

 ウェッジ 2700円

読売新聞
2016年2月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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