「平成」の世と皇室を読み解く鍵

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「平成」の世と皇室を読み解く鍵

[レビュアー] 平山周吉(雑文家)

 二十八年目に入った「平成」の世と皇室を読み解く鍵が、この本には埋め込まれていると感じた。伊藤晃の『「国民の天皇」論の系譜――象徴天皇制への道』は、タイトルこそおとなしいが、中味はハードである。著者は大学で近代日本史を教えてきた人のようだが、立場ははっきりと共和主義である。その立場から誠実に思考を重ねることによって明らかにされるのは、著者自身にとってはまことに不本意な事態である。つまり、近代日本と平成日本で、「天皇制」が強固に長持ちし、「国民の天皇」が完成するという結論に立ち至ってしまうのだ。

「国民の天皇」とは、北一輝が大正十二年(一九二三)の『日本改造法案大綱』において提出した天皇像である。ほぼ同時期に津田左右吉は、「国民的精神の生ける象徴として」の皇室への敬愛を位置づけた。敗戦による大打撃の際に、津田、和辻哲郎、金森徳次郎らの穏健な天皇主義による戦後へのソフト・ランディングが「国民の天皇」として受け容れられた。長い戦後の後の昭和天皇崩御は、国民の天皇への関心喪失を招くかと思えた。

 四半世紀を経て、事態はどう動いたか。護憲・平和・慰霊・仁慈によって、戦後民主主義と親和してきた「明仁・美智子夫妻の天皇制史に残る業績」によって、むしろ「天皇のもとでまとまる国民の一体性」という「虚構」が完成しつつある。著者はむしろその点を、危機感を持って受けとめている。「自分のことは自分で考え、解決する」という「人間の尊厳」から、かえって遠ざかっているのではないか、と。

「昭和天皇実録」公開後のもっとも重要な天皇研究は、現時点では豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道』(岩波書店)であろう。その本の終結部に現われるのは、「明仁天皇の立ち位置を立脚点としつつ、今後の日本が進むべき道を」展望しようという豊下の姿勢である。伊藤晃はこれを批判する。新刊書でいえば、保阪正康『天皇のイングリッシュ』(廣済堂新書)も似た傾向を示している。保阪は「今の天皇と皇后」への「信頼感が私自身のものの考え方の基盤」になり、「自分の考えの縁(よすが)にしてゆく」と述べている。豊下も保阪も期せずして、戦後民主主義の内側にある明仁天皇を、師表と仰ぐかの如き態度をとるのである。

 平成の初めに、吉本隆明は、「天皇と天皇制が民衆の上に存在せずに傍に存在するというようになるべきだ」と書いていた(『天皇制の基層』)。そうした時代が平成の世に遂にやってくると吉本は予想していたと思われる。伊藤晃にもその思いは共通していたのではなかろうか。しかし、そうはならなかった。民衆ではなく識者の、傍ではなく、やや上方に天皇が存在している――。

 日本国憲法の最大の焦点は、成立の事情からしても一条と九条であることは言うまでもない。喧しく議論されるのはいつも九条のほうである。伊藤晃は別のアプローチをとる。九条ではなく、「第一条を思い出すことから」本書を出発させるのだ。

 象徴天皇制の第一条の問題を、明治から現在まで、思想史として捉えかえす伊藤の本書を読んでいると、それは天皇の「抱擁力」と、知識人の「ためらい」、そして巧妙な官僚制、の三点に集約されてくるように思えた。

 大逆事件の時、徳冨蘆花は、天皇が幸徳秋水ら「謀叛」の社会主義者を抱擁しうると信じた。こうした「親天皇」の立場は大正デモクラシーに引き継がれたというのが伊藤の歴史観である。二〇世紀という新しい世界に対応すべく、天皇制は懐を拡げるだろうと期待する。このような「期待」は昭和に入っても続き、転向者や、現状打破を模索する無産政党の政治家をも天皇に向かわせる。

「ためらい」は、コミンテルンからの天皇制打倒の指令に困惑し、民衆の天皇崇拝の前で立ち尽くすしかなかった共産党幹部の姿に典型的に現われる。戦前の、そして現在の知識人をも広く被っている感情ではないだろうか。

 戦前の統治機構とは、「天皇の裁可をめぐる諸意志の争い」を本質とした、と伊藤は見る。「上意の奪い合い」ともいえよう。非常にクリアな解釈である。その争いの勝者を「天皇主権が保証」し、天皇によって定まった国家意志は絶対服従すべきものになる。従って、大日本帝国憲法の「天皇の絶対不可侵」は、「統治集団の肉体に食いこんだ精神をも表現して」いた。戦争に負けた後も、統治集団は生き延び、「かつては天皇主権を、いまは国民の意志(国会における多数)を、狡猾に利用する」。

 帝国憲法七十三条に則って、「勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付」し、憲法は現在の姿に改正された。その時、帝国憲法を自ら批判することがなかったことを伊藤は指摘する。形式論に過ぎる批判とも言えるが、皇室と昭和史を真摯に考えようとするならば、立ち止まるべき批判の声ではあろう。こうした問いが本書にはいくつも内在している。

 もっともスリリングな観点は、美濃部達吉の天皇機関説との対比で、ドン・キホーテ的な役どころだった上杉慎吉の天皇論を“再評価”している部分である。上杉の思想が憲法第一条に伏流として流れ込んでいると見ているのだ。美濃部は「解釈改憲」、上杉は「天皇主義ポピュリズム」と耳目に入りやすく図式化されている。ふつうなら、こんな言葉遣いは上滑りになってしまう危険があるのだが、本書の中では例外的にそれをまぬかれている。著者の力量を感じさせる点だ。

新潮社 新潮45
2016年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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