「私」を砕く文字

レビュー

9
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プロローグ

『プロローグ』

著者
円城 塔 [著]
出版社
文藝春秋
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784163903583
発売日
2015/11/24
価格
1,836円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

「私」を砕く文字

[レビュアー] 丹生谷貴志

 この本を読む前と読んだ後のあなたはもはや同じでは有り得ない……そんな本が存在すると同意することはできる。実際人は「~を読んで私は変わった」などと言いもする。しかし言うまでもなく、読み終えるや読者が例えば何か知れない糸巻きめいたものになってコトリと電車の座席に転がるなどということが起こるはずもない。本は読者の脳内の情報の網に何がしかの付加を供給し、深浅はともかく変成を及ぼすことを限界とし、読者の存在の形態の変異までをも引き起こす装置では有り得ないのだから当然のことである。しかしここに「円城塔」と書かれる書き手がいて、あたかも「本」をさしあたりは文字で出来たディスポーザーに仕立て上げ、そこに入り込むや「読者」は、机に座ってか寝ころんでか喫茶店やら通勤途中かはともかくその形態を文字通り砕かれ、読み終わるや何か知れない別のものへと組み開かれてしまうことになる「本」を書こうとする。無論そんなことは出来ようはずもなく、実際のところ結局読者は「円城塔の書きもの」をSF的奇想の系譜を継いで高度の理系の見識を基底に編み上げられたトリッキーなセンス・オブ・ワンダーの小説として読むのだろうし、円城塔自身それ以上のことが起こり得ようもないことを承知なのは当たり前のことなのだが、この「当たり前のこと」を承知することへの激しい苛立ちが、一見激情とは程遠いところで綴られる円城塔の小説を震わせている……そんな感じがする時がある。「これは私小説である」と繰り返される本書はまさにその苛立ちがfuryと英単語で記したくなる軋みを孕んで書き置かれた書字である。

 ここでは書き手=「わたし」=円城塔とされようものが冒頭からディスポーザーに投げ込まれ砕け散り続ける。固有名はさしあたりここでは漢字で記される文字であり、文字はそれ自身文字から成るディスポーザーで破砕されランダムに膠着しさらに砕かれ続ける。「円城塔」と多分記されるはずだった文字は冒頭から砕け散ってしまい、あたかもその再編を求め続けるかのようにことは展開……そう、展開し始める。文字通りの「〈円城塔〉探し」? これがまずは「私小説」の意味だ。この文字の破片にいつになく中年を越えようとする男性作家(!)の文体の体臭、或いは滲んだ血の匂いが混ざるのは「私小説」の故でもあろうし、点綴される具体的な場所や出来事に円城塔と書かれる者の実人生(!)の断片を読みとることも可能である(これはディック賞に関わる渡米だろうか、ああ関西に移住し、おやお子さんが生まれたんだ……等々)。しかし肉片めいた破片から「私」を再構成することが問題ではない。或いは「円城塔の小説」であるからには当然恐ろしい速度で、所々破断した阿弥陀籤的論理の展開を示す「奇想のストーリー」を要約することも可能だがそれもさして重要ではない。重要なのはこの本=ディスポーザーが「私」だけではなく出来ることなら「今ここで“これ”を読んでいる読者」、ということはさらには具象の全世界の全時空を、その綻びの糸を片っ端から摘んで巻き取り解(ほど)き、終わりのない編み直しに変異させるという不可能な渇望に軋んでいる、その実際に生きられている軋みを聴き取ることだ。自身を不可能な渇望の軋みそのものとして、破砕の告白であることを覚悟で曝すこと、これが本書が「私小説」であることのもう一つの証拠である。

 ……「はじめに〈文字〉があり、以降それしかなく・それだけがある」、円城塔の読者なら知るように、これは円城塔においてSF的夢想でも形而上学的テーゼでもなく断固とした科学的存在論的認識論的発生論的etc.的事実として置かれ続ける。不意に断固として無意味な線や点が散り、それが文字であり全存在の発生であり、「光りあれ」といった有意的な言葉はその遥か後の派生に過ぎない。文字が全世界の本体であるとすれば文字が書かれ読まれるあらゆる瞬間において全宇宙は瞬時瞬時、同時に破砕と再構成の波動として現勢化するはずである……と、むろん実際は文字は紙の上に道具めいて押し黙り、文字とは別物として現実が自律してあるかのように鎮まって分業されているのが「現勢世界」であって、核分裂が忌避されるかのように「はじめの文字」はどこにでも露呈しているはずなのに見えない何処かに隠蔽され、その融解の気配は消去されている。しかし、超大陸パンゲアが実在であったのと同じほどに「すべてが文字の破砕と再構成の反復である」ことは今ここに於いても事実なのだ……という殆ど叫びに近い断定の軋みが円城塔と署名される文字を分光する。『プロローグ』が間違いなく「私小説」であるのはこの叫びが、テーマパーク的小説のアイディアとしてではなく、繰り返すが、「やがて円城塔と呼ばれることになるだろう者」の、最初で途中で最後の本当の具体の叫びとして、言わば赤剥けに割れた私=文字となる皮膚を曝す覚悟で書かれるからである。

 ……様相論理学現代物理学スピノザetc.etc.を高度に内包して軽金属の繊細さで織り上げ、高速度のボーイ・ミーツ・ガール的ストーリーを潜在させて走らせる「超SF作家・円城塔」を期待した読者には、「私小説」の性質上(?)登場人物があらかた中年男ばかりのこともあって、本書は多少重苦しいか。それに応ずるように本書に同時平行して書かれた美しい長篇『エピローグ』がある。二つの本は登場人物の名の同一、謎めいた「イザナミ・システム」の登場において題名通り「プロローグ」と「エピローグ」を成すかのようにも見え、その場合別の書評が書かれるべきだろうが、さてこそ、この二つは、同じ皮膚が、一方は軽金属の感傷性を帯びた網目となって飛翔し一方は血肉の飛び散りの重さで下降し、互いを呼び合い、円城塔という類いない小説家の……「エピ/プロ/ロゴス」を組み上げる。どちらにしろ、円城塔のすべての文字の束が常に既に始まってしまっているものに向けての新たな初めへの誘いで閉じ/開かれ……「出発だ!」、と……、「円城塔」は文字通り未来として置かれる。

新潮社 新潮
2016年2月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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