憎悪滾(たぎ)る偽書は、世界をどう歪めるか?

レビュー

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プラハの墓地

『プラハの墓地』

著者
Eco, Umberto, 1932-2016橋本, 勝雄, 1967-
出版社
東京創元社
ISBN
9784488010515
価格
3,850円(税込)

書籍情報:openBD

憎悪滾(たぎ)る偽書は、世界をどう歪めるか?

[レビュアー] 豊崎由美(書評家・ライター)

 二月二十九日に八十四歳で亡くなった、イタリアの知の巨人ウンベルト・エーコが、二○一○年に発表した『プラハの墓地』は、ロシアのポグロムやナチスのホロコーストの根拠とされた、史上最悪の偽書「シオン賢者の議定書」の成立を中心モチーフにした長篇小説だ。

 主人公はユダヤ人嫌いの祖父に育てられたシモニーニ。法学を修めた後、ある公証人のもとで遺言書などの文書偽造のやり方を学んだ彼は、その腕を活かして各国の秘密情報部の手先となり、イタリア統一戦争や、普仏戦争敗北後のパリで民衆によって短期間樹立された世界最初の社会主義政権「パリ・コミューン」、冤罪で知られるドレフュス事件などに関わりつつ、混沌の十九世紀ヨーロッパを器用に泳ぎわたっていく。その過程で夢中になるのが、「シオン賢者の議定書」を彷彿させる「プラハの墓地からの報告書」の偽造なのだ。

 ゴーレム伝説で有名なラビ・レーヴが埋葬されている墓地にユダヤ教の重要人物らが集い、ユダヤ民族による世界征服の計画を立てるという内容なのだが、この文書をでっち上げることで〈邪悪なユダヤ人に対して私が抱いていた憤怒と恨みは、抽象的な概念から抑えきれない深い激情へと変わった〉シモニーニは、これが〈自分の天命なのだ〉とまで思いこむのだ。生まれてこの方、ユダヤ人に何か害をなされたことなど一度もないくせに!

 一八九七年三月二十四日の日付から始まる、過去の出来事を回想したシモニーニの日記に、彼が意識を失っている間にだけ出現して欠けた記憶を補填するような書き込みをしていくイエズス会の神父ピッコラ。どうやらこの神父はシモニーニの別人格らしいのだが、そもそもなぜそんなことが起きているのか。その謎の核心に迫っていく中、多くの事件が起き、陰謀は渦巻きに渦巻く。ヨーロッパの歴史に不案内だと不安になるくらい盛り沢山の内容なのだが、十九世紀に流行した通俗小説ばりに〈語り手〉までもが作品世界に出張ってきて、物語の交通整理をしてくれるので驚くほどスイスイ読みこなせてしまう。『薔薇の名前』でもそうだったように、エーコのサービス精神は本作でも健在なのである。

 ユダヤ人憎悪に燃える男の内面に伴走するスタイルで進行していくこの物語は、ヘイトスピーチをがなりたてるシモニーニ的な輩が跋扈(ばっこ)する現代日本に生きるわたしたちの胸にも深く突き刺さるはず。ノー・シモニーニ、ノー・ヘイト!

新潮社 週刊新潮
2016年3月24日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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