『よこまち余話』
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幻想と日常が同居する 死者と生者が共にある世界
[レビュアー] 中江有里(女優・作家)
本作の舞台である下町の長屋は、言わば「あわい」の世界。一歩足を踏み入れると、足下は揺らぎ、自分の輪郭までもが曖昧になっていく。
長屋に住まう腕の良いお針子の齣江(こまえ)を中心に、向かいに住んでいるのに始終齣江の家にいる老婆のトメ、糸を届けたついでに話し込む糸屋の青年、魚屋の息子である浩一・浩三兄弟は齣江を慕ってしょっちゅうやってくる。一見気の置けないご近所さんだが、読み進めると様子が違ってくる。全部で十七編の短い物語は、一つずつ完結しているが、回を追うごとにわかってくる事情もあれば、よけいに深まる謎もある。一番古くから長屋にいるトメの過去を糸屋の青年は意外な形で知るが、トメがいつからここにいるのか誰も知らず、しっかり者で生活感のある齣江が、どこから来たのかも明かされない。
世阿弥があらわした『花伝書』は齣江の大事にしている書で、本作の「あわい」を示唆している。
「真(まこと)の花は、咲く道理も、散る道理も、心のままなるべし」
身についた花は咲くも散るも思いのままになるという意味だが、言葉そのものが謎かけのようだ。世阿弥は「花」とは、花そのものと面白さや意外性と説いているが、ここでいう「花」は実際に手ではつかめない。つまり言葉を重ねても説明できないものを「花」と呼ぶのかもしれない。
本書は能舞台と等しく、死者と生者が共にある世界である。特に齣江がある人物と能を観る場面は心に焼き付く。死者を愛おしみ、弔う思いが満ちあふれ、齣江が抱えてきた独りの時が感じられるのだ。
静かな存在感を見せる能役者・大高の台詞が印象的だ。
「おまえさんにとってここは、願って入った世界じゃあないのだろう。でも、終いまでやり遂げてごらんなさい。おまえさんの流で」
座敷に出たばかりの半玉への言葉は、彼岸から生者へのメッセージともとれる。生者が死者に思いを寄せるのと同じく、死者もまた願って入ったわけではない世界で、生者に伝えたい何かがある。その念はたとえ体が消えても残り続けているのだろう。
お針子の齣江をはじめ魚屋、糸屋といった職人たちの日常と、妖怪ミカリバアサマや天狗が現れる幻想が隣り合う。浩三が自分の影と禅問答のような会話をしたり、浩一は押し入れの中にあるはずのない丸窓を発見し、そこからの景色を見たりする。いかにも不思議なのに違和感なく読めるのは、すでによこまちに引込まれているからかもしれない。