『なぎの葉考・少女』
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【教養人のための『未読の名作』一読ガイド】少女 [著]野口冨士男
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
二十二歳の青年が、小学六年生の美少女を誘拐し、何日も一緒に旅を続ける。
と書くと、異常な犯罪小説に思われるかもしれないが、まったく違う。一種の純愛小説になっている。
野口冨士男(一九一一─一九九三)が一九八五年に『新潮』に発表した短篇。私小説の多かったこの作家には珍しい客観小説。無駄のない簡潔端正な文章で青年と少女の逃避行を描いてゆく。
終戦直後の混乱期。海軍から復員してきた青年が、横浜に住む富豪の娘を学校帰りに誘拐する。はじめは身代金を要求するつもりでいたが、少女と各地を転々と泊まり歩くうちに、少女の美しさ、疑うことを知らない無垢な態度に魅せられてゆく。少女もまた青年を「お兄ちゃん」と呼んでどこまでもついてくる。
被害者が犯人と一定期間、二人きりでいると、その犯人に愛情を抱くようになる。現代風に言えば、いわゆるストックホルム・シンドロームだろうが、この小説はそうしたお定まりとも違う。
青年は早くに両親を亡くし、義母に育てられた。淫蕩多情な女で、青年が現在でいえば中学生の時、その幼ない身体をもて遊んだ。青年は傷つき、以来、「大人の女はきたない」と思うようになった。
兵隊に取られた時、上等兵に誘われて娼家に上がったが「きたない」義母を思い出し、娼婦に嫌悪を覚えた。
だから青年にとって清純な少女は俗世に汚れていない、憧憬の対象になった。無論、危害など加えない。身体に触れることもない。富豪の娘とはいえ、親の愛情に恵れているとは思えない少女も、次第に青年になついてゆく。
モラルが崩壊している戦後の混乱期のなか、青年の純潔への思いが痛々しいほど胸に迫る。純愛小説と呼ぶゆえん。
逃避行の果て、岐阜の山村で青年はついに逮捕される。連行されてゆく青年に向かって少女が叫ぶ。「いや、お兄ちゃんを連れて行っちゃ、いや」「あたし、お兄ちゃんが、大好きなんです」。
いじらしい。野口冨士男は愛読している作家。評論『わが荷風』と随筆『私のなかの東京』は座右の書。