『プラハの墓地』 ウンベルト・エーコ著

レビュー

2
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

プラハの墓地

『プラハの墓地』

著者
ウンベルト・エーコ [著]/橋本勝雄 [訳]
出版社
東京創元社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784488010515
発売日
2016/02/21
価格
3,780円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『プラハの墓地』 ウンベルト・エーコ著

[レビュアー] 出口治明(ライフネット生命保険会長)

巨星が残した課題

 初めてプラハのユダヤ人墓地を訪ねたのは晩秋で、ベルリンの壁が崩れるかなり以前のことだった。小さいゴーレムを記念に買ったのを覚えている。ナチのホロコーストに霊感を与えた史上最悪の反ユダヤ主義の偽書「シオン賢者の議定書」は誰がどのように捏造(ねつぞう)したのか。その謎に挑む諧謔(かいぎゃく)に満ちたピカレスク小説である。

 美食家でユダヤ人嫌いの祖父に育てられたトリノ生まれのシモニーニは、公証人事務所で文書偽造の腕を上げ情報部に雇われる。トリノの図書館でプラハの墓地の美しい版画を見つけたシモニーニは、この場所こそイエズス会やフリーメーソン、ユダヤ人の世界征服の悪魔的な陰謀にふさわしいと考える。最初の仕事はガリバルディが占領したシチリアでの策謀。若いシモニーニは仕事が出来ず、パリへ逃れて今度はフランスの情報部に仕える。時代はパリ・コミューンからドレフュス事件へ。シモニーニは混乱の中で仕事が出来るようになる。そしてロシアの情報部へ「シオン議定書」の原案を提供する。

 知の巨人エーコは女性を嫌悪し美食に走る魅力的な悪漢シモニーニを造形したが、他の主な登場人物は実在しており史実に忠実である。脇役でフロイドやデュマが出てくるのだ。本書は老いたシモニーニが過去を回想する日記の体裁をとっているが、著者秘蔵の挿画が多数挿入されており凝った料理の数々が紹介されているのでページを捲(めく)るのがとても楽しい。しかしエーコが面白いだけの小説を書くはずはない。シモニーニは「今でも私たちのあいだに存在している」と著者は指摘する。技術の進歩で史料の偽造は容易になり、エーコが本書で描いた憎しみと差別のメカニズムは、インターネット社会の到来によって、匿名での誹謗(ひぼう)中傷など偏見と憎悪がむしろ増幅される。他者への憎しみと不寛容こそが僕たちの21世紀の社会が抱える最大の病巣ではないか。重い課題を残して巨星エーコはこの2月神に召された。合掌。橋本勝雄訳。

 ◇Umberto Eco=1932~2016年。北イタリア生まれ。記号論学者、作家。著書に『薔薇(ばら)の名前』など。

 東京創元社 3500円

読売新聞
2016年3月27日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

  • このエントリーをはてなブックマークに追加