フィクションだと誤読する「母親」と「学校」の凄まじい戦い

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フィクションだと誤読する「母親」と「学校」の凄まじい戦い

[レビュアー] 立川談四楼(落語家)

 不登校の息子がいた。高一である。原因は学校側にあると、常に母親は責め立てたが、久々に登校する予定の日、息子は姿を見せず、翌日自宅で自殺してしまう。

 本書にはそれからの長く凄まじい騒動の一部始終が描かれるが、私はうっかりフィクション、つまり小説だと誤読した。著名な人権派弁護士が登場し、校長を刑事告訴する。地元紙が「いじめ」と煽り、これに追随する。母親は民事でも訴え、巨額の賠償を要求する。学校側はひたすら頭を低くし、防戦一方の体。既視感があり、ついフィクションと誤読したのだが、これが本当にあったこと、しかも教育県の長野で起こったことと知り、戦慄した。

 弁護士には成功体験があった。学校側を屈服させた他、武装勢力の人質となった邦人を海外に迎えに行き、原爆症認定やハンセン病訴訟にも太く関わっている。世間的には正義の人だ。その尻馬に乗って学校を叩く地元紙というのもよくあることだ。またいじめかと、全国ネットのテレビもやってくる。いじめは大きな社会問題であるからだ。

 生徒、その担任、部活顧問など、心身に変調をきたす人が続出する。法と倫理の合わせ技に学校側は絶体絶命、もはや白旗、降伏するしかないと思われたが、ここに至って学校、父兄がいっせいに決起、全面戦争に突入するのである。

 我慢して我慢して、その果てに爆発する。いよぅ、そうこなくちゃと、私はまた小説と現実の狭間(はざま)を行ったり来たりする。私は明らかに学校側に肩入れするのだが、それは読者の無責任というやつで、学校側の訴えは両刃の剣だ。生徒の自殺という事実があり、そこにいじめがからめば、世間がどっちの味方につくかは分かりきったことなのだ。

 タイトルが重くのしかかってくる。ペアレンツじゃダメだ。分散してしまう。ここはどうあってもマザーでなければならないのだ。一人の母親に大勢が振り回される。彼女には離婚歴があり、元夫二人がどんな暴言と暴力に晒されたかが描写されても、この一人の母親を誰も止めることはできない。「人権」、何と強く大きな、人を竦(すく)ませる言葉であろうか。

 弁護士もマスコミもそこを盾に取り、攻撃側に回る。学校側もそこを尊重し、事がこじれた。しかし裁判において、劣勢から徐々に反撃を開始し、ついには勝利をもぎとるまでの過程は実に痛快で、これがエンタメ小説であったならと、私はどこまでも誤読したようである。

新潮社 週刊新潮
2016年4月14日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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