1nの強度へ

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1nの強度へ

[レビュアー] 細馬宏通

 ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』(2014)を見ておそらく誰もが驚くのは、映画前半と後半に一度ずつ現れる非「3D」場面だろう。そこでは、それまで融合していた両眼の像が何の予告もなくいきなり引き剥がされ、ばらばらになってしまう。女が男のもとを離れるや、右眼の像はあれよあれよという間に左眼の像を置き去りにしてしまい、見る者は二重にちらつく映像のどこを見てよいのか混乱させられる。女はじきに男のそばに戻ってきて、左右は再び融合するが、3D映画では一つの立体映像を見るのだという当たり前の前提をくつがえされた衝撃はなかなか消えない。

 歴史上、何度も一時の流行として消えてきた3D映画だが、『アバター』以来、いまやすっかり定着した感がある。2016年現在、こうした3D映画の撮影の多くは、あらかじめ二眼を備えたカメラを使うか、ビーム・スプリッターと呼ばれるプリズムによって二つのカメラに映像を振り分ける方式を用いて行われている。いずれの場合も、作り手は自然な立体映像を作り出すことに腐心しており、二つのレンズは左右の眼に相当する場所に据え置かれて微調整され、そこから離れることはない。

 ところがゴダールは『さらば、愛の言葉よ』において、2を1と1に、いともたやすく剥がしてみせたのである。これを技術的に説明することはできる。この場面が3D専用のカメラではなく、市販のデジタルカメラ(デジタルビデオではない)の動画機能を用いて、二台をお手製の台に取り付けたものによって撮影されており、撮影者はカメラの一台をスムーズに着脱できた、というのがその理由だ。しかし何より、左右の像は正しく一つの3D映像を映さねばならないという誰もが陥りがちな固定観念からひょいと抜け出るその身軽さに、すでに80歳を越えているゴダールの精神の自由さが表れているようで、わたしは映画館でとてもすがすがしい気になった。

 佐々木敦が『ゴダール原論』を書き始めたのも、この非「3D」場面の衝撃によるところが大きいに違いない。じっさい、この本で彼は『さらば、愛の言葉よ』の内容を詳細に検討しており、とりわけ両眼像の分離が引き起こす現象、すなわち「視野闘争」を繰り返し扱っている。

 しかし一方で、著者はその衝撃を、単に3D/非3Dという視覚体験の次元の問題として捉えているのではない。たとえば、5・1chという触れ込みで上映されている『さらば、愛の言葉よ』の音声の多くは、実は2chステレオによって構成されているのだが、その左右のスピーカーからは、お互いの響きを攪乱させるような音声があちこちの場面で流されている。わたしは、映画の終盤に行われるカリグラフィや絵筆や万年筆のたてるやけに耳につく擦音が、じつは声とは逆のチャンネルにのみ録音されていることに気づいて驚いたのだけれど、著者は、ゴダールがずっとこうした音声どうしの衝突を「ソニマージュ」として仕掛けてきたこと、音(ソン)の試みが映像(イマージュ)の試みに先行していたことを指摘する。『さらば、愛の言葉よ』に見られる「視野闘争」は、いわば「聴野闘争」によってすでに予告されていたというわけだ。

 著者はさらに、「視野闘争」の問題を、『さらば、愛の言葉よ』に表れる二人/二組の男女、彼らによって語られる子供、そして犬のロクシーによって進行する物語の、構造上の問題として捉え直す。一人の男と一人の女の語りは、もう一人の子供を作ることよりも犬を選ぶ。一人の女は一人の男から離れ、一つの立体映像を破綻させる。なぜゴダールの映画においてワン・プラス・ワンは、新たな3つめを産み出す1+1=3という物語に帰着しないのか。著者は、左右の映像を第三の立体映像から引き剥がす視野闘争の場面に、「むしろ1+1=2という数式が、それ自体として過激な力を有している」がゆえに生まれる表現の強さを見いだす。

 本書は、『さらば、愛の言葉よ』についての論考を、二つの論考によって挟み込むことで、議論をさらに拡張している。その一つは、ゴダールのソニマージュ作品、すなわち音(ソン)と映像(イマージュ)の癒着を引き剥がす一連の実験を論じた最初の章「彼のソニマージュ」である。そこでは、たとえば『カルメンという名の女』において、トム・ウェイツ「ルビーズ・アームズ」が奇妙な巻き戻しを伴いながらショットとショットの間に埋め込まれた時間のずれを指し示すという現象を取り上げることで、シネマがいかに「映像と音響の重合によって『時間』を相手取る芸術」であるかが論じられる。もう一つはオムニバスのテレビ映画『パリ・ストーリー』に収められたゴダールの短編映画『最後の言葉』と『新ドイツ零年』を軸に論じられる終章「ONEn+」である。この章は、20年以上前に著者自身によって書かれた未完の文章を現在の著者が「一種の『即興』で」書き継ぐという、それこそワン・プラス・ワンの形式で記されている。『新ドイツ零年』が論じられることによって、ワン・プラス・ワンの問題は、二つのドイツから一つのドイツを産み出したヨーロッパの歴史、そしてそこでなお孤独でいるしかない個人の問題へと拡張される。

「最後の言葉」とは、遺言のような、他者への伝達を前提とした言葉ではない。それは辞世の句として、死の間際に半ば独白のように告げられる言葉であり、著者の言葉を借りるなら「『生』の極限において、自己の『内部』と『外部』の両側に向けて同時に、だが別々に発せられる、おそらくは唯一の言葉」である。1は「最後の言葉」をなぜ他者に聴取可能な声として吐き出してしまうのか。1のそばに、なぜ1がいるのか。にもかかわらず、それはなぜ3にはなりえないのか。佐々木の粘り強い論考を通して、『さらば、愛の言葉よ』に端を発した「3D」の3は、1nの強度へと着実にカウントダウンされてゆく。その全容は、ぜひ本書で確かめていただきたい。

 そしてわたしは、もう何度も映画館で見た『さらば、愛の言葉よ』を、また見たくなってしまう。なにしろロクシーときたら、長い鼻面と体躯をせわしなく動かし、3D映像が前提とする奥行き限界を軽々と破り、人間には知覚できないワン・プラス・ワンのほころびをあちこちで露わにしてくれるのだ。ワン、ワン、ワン。

新潮社 新潮
2016年3月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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