『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』 栗原康著

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村に火をつけ、白痴になれ : 伊藤野枝伝

『村に火をつけ、白痴になれ : 伊藤野枝伝』

著者
栗原 康 [著]
出版社
岩波書店
ISBN
9784000022316
価格
1,944円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』 栗原康著

[レビュアー] 朝井リョウ(作家)

ルールより人間信じて

 子どもを育てることと、働き続けること。家庭を持つことと、その外で恋愛をすること。制度的にも、倫理的にも、両立し難いと思われていることは多い。それは無理ってことにしておこう、という目に見えない言外の約束は、私たちの足首を掴(つか)み、その身動きを制限する。

 この本は、大正時代の無政府主義者、ウーマンリブの元祖とも言われている伊藤野枝の人生を綴(つづ)ったものだ。野枝は、先ほど述べたような言外の約束なんて全て無視する。進学、恋愛、結婚、仕事、子育て、一マス進む毎(ごと)に現れる「こうあるべき」というルールをブチ破り、女であり妻であり母であり職業人であり活動家であり続けた。習俗打破、と唱えながら、結婚制度や社会道徳など、常識だと思われている事柄を次々に問い質(ただ)していったのだ。出る杭(くい)は打たれる、空気を読め――そんな風潮の現代、家賃を払わずに借家に居直るなど簡単には頷(うなず)きかねる行動もあるが、野枝の猪突(ちょとつ)猛進さは私たちの中に眠る何かを覚ます光になり得る。

 そして、読み進めるうち、野枝のもう一つの魅力が滲(にじ)み出てくる。野枝は無政府主義者ゆえ、社会の中心に立ちルールを作る者に立ち向かい続けるが、それはつまり、中心など無くても私たちは大丈夫なのだという、人間そのものへの信頼の表れだ。野枝は、社会の中心にいる要人ではなく、自分のすぐそばにいる仲間を信じていた。ルールは要らない、人間を信じることができれば。野枝の思いに、胸が熱くなる。

 ただ、著者が野枝の主張に共感するあまり、時に反対派への視線に公平さが欠けるきらいがある。だが、その強烈な共感からこそ生まれているだろう文章のドライヴ感が、実に清々(すがすが)しい。この本が、文章を読むことそれ自体の気持ちよさを付与することで「評伝=難しそう」という“習俗”を打破していることは間違いない。野枝の信念と著者の文章が合体することで生まれたパワーが、頁(ページ)の隙間からぎらりと迸(ほとばし)る一冊だ。

 ◇くりはら・やすし=1979年、埼玉県生まれ。東北芸術工科大非常勤講師。専門はアナキズム研究。

 岩波書店 1800円

読売新聞
2016年5月1日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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