『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』 トリストラム・ハント著

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エンゲルス

『エンゲルス』

著者
トリストラム・ハント [著]/東郷 えりか [訳]
出版社
筑摩書房
ジャンル
歴史・地理/伝記
ISBN
9784480861320
発売日
2016/03/24
価格
4,212円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』 トリストラム・ハント著

[レビュアー] 納富信留(ギリシャ哲学研究者・東京大教授)

低評価一新する評伝

 ソ連や東欧で共産主義体制が崩壊して四半世紀、カール・マルクスやマルクス主義の再検討、再評価が盛んである。だが、マルクス主義に名を連ねたフリードリヒ・エンゲルスは、劣った理論家、真意を歪(ゆが)めた協力者という低評価に甘んじてきた。本書は、英国の歴史家がその人生を辿(たど)る名誉回復の本格評伝である。

 若き日にマンチェスターで経験し著した『イギリスにおける労働者階級の状態』は、共産主義の成立に決定的な影響を与えた。それは単に労働者の悲惨で非人間的な状況についての貴重な報告にとどまらず、マルクス主義の基本思想を生み出す論争の書であった。だが、本書の特徴は、その後マルクスと組んで共産主義を進める後半生への視座にある。

 綿工場経営者として活躍しながら夜は別の私生活を営み、共産主義理論の誕生のためにマルクスと文通する二重生活の「将軍」(ニックネーム)は、盟友からの際限ない金銭的要求に応じ、彼の私生児を認知するまでの個人的犠牲を黙々と受け入れる。それは友情のため、自身が目指すものの実現のためであった。激動の19世紀に人類の歴史を変える思想が生まれ展開していく様が、エンゲルスという裏面から鮮明に浮かび上がる。

 冷静で徹底した歴史家の視線は、彼の開かれた思索、驚異的な探究心や規律や戦略、人情を偏見なく、時に批判や皮肉を交えて描きだす。また、スターリンのソ連に代表される硬直した冷酷な思想は決してエンゲルスに由来するものではないことが説得的に示される。

 女性と酒と議論と狩猟をこよなく愛し「陽気さ」をモットーとした達人の人生は、自身を消すことで人類の未来に捧(ささ)げられた。だが、こうして復元された魅力溢(あふ)れる人物から「現代に通じる声」を聞き取ることが、私たち自身にとっても、現在の状況を見つめ将来を見据える視座となるはずである。東郷えりか訳。

 ◇Tristram Hunt=1974年、英国生まれ。歴史家。2010年から労働党の下院議員を務める。

 筑摩書房 3900円

読売新聞
2016年5月8日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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