『聊斎志異 上』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
帰宅した男に「あなたは何年も前に亡くなった」と妻は説いた
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
絶世の美女が実は人間ではなく狐だった。生きていると思っていた人間がとうに死んでいた。死んだ筈の人間が生き返った。不可思議な出来事が次々に起る。それもごく自然に、当り前のように。
中国清初(十七世紀)に書かれた怪異小説の古典。「聊斎」は作者(一六四〇―一七一五)の書斎の名。「志異」は「異(ふしぎ)を志(しる)す」。従って「蒲松齢による怪異小説集」といった意になる。
男が、とある寺に入る。みごとな壁画がある。少女が花を手に微笑んでいる。男は誘われるように絵のなかに入り、天界の少女と歓を交わす。
役所の試験に何度も落ちる男がいる。苦節を重ね、ようやく合格する。家に帰り、妻に喜んで報告すると妻が言う。「あなたはもう何年も前に亡くなられたのですよ」「やたらに迷って出て人を驚かせないでください」。
ある男が受験勉強をしていると緑衣をまとった美女が現れる。自然と一儀(いちぎ)に及ぶ。幾夜かが過ぎ、美女は去ってゆく。そのあと男は蜘蛛に捕えられた緑色の蜂を助ける。蜂は墨壺に飛び込み「謝(ありがとう)」と書くといずこともなく飛び去ってゆく。
現実と夢想、生と死、人間と異類がごく自然に溶け合っている。此岸と彼岸は地続きであり、死者がよみがえり、生者が死の国に迷い込む。
仙人、鬼、化けもの、幽霊、狐……が当り前のように人間の世界に入り込む。とりわけ狐がよく登場する。褥(しとね)を共にした美女が実は狐だったという話が多い。
異界からやって来る者たちは、悪さもするが、多くは幸福をもたらす。美女=狐はエロティックでもある。たとえ正体が狐だと分かっても、天にも昇る快楽を得たのならそれはそれでいいではないかというおおらかさがある。
男が冥土で閻魔大王によって拷問を受ける。鋸(のこぎり)で身体を真二つにされる。終わると元のように左右の身体を合わせられる。奇想天外も極まると笑いになる。
近代の日本の作家に大きな影響を与えた。芥川龍之介と太宰治にはこの物語に材を取った短篇があるし、佐藤春夫や安岡章太郎も好んだ。