粘る糸を手繰りて納豆の源流を探る

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高野秀行『謎のアジア納豆―そして帰ってきた〈日本納豆〉―』刊行記念特集  粘る糸を手繰りて納豆の源流を探る

[レビュアー] 小泉武夫(発酵学者)

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ネパールの納豆カレー。納豆の味は全然しない

 納豆は煮るか蒸した大豆に納豆菌が繁殖して出来る発酵食品で、特有の粘質物質(糸引き)と濃厚なうま味、迸るほどの栄養価、独特の匂いなど、どれをとっても不思議で神秘的な食べものである。日本人は昔から、これを味噌汁の中に入れたり、ご飯にかけたり、さまざまなものと和えたりして、大いに食べてきた。肉をほとんど食べなかった日本人にとって、味噌と共に貴重な蛋白質の供給源となって、大いに日本人を助けてきた有難い歴史を持っている。

 この納豆は、日本だけにあるものではなく、我が輩が調査してきただけでもミャンマーやタイ、中国南部(雲南省西双版納)、インドのシッキム(ナガランド)、ネパール、ブータンなどにもあった。ただし、その造り方や形状、食べ方などはとてもまちまちで、従って出来上った納豆が、今日私たちが食べているものと同じような風味のものであると考えるのは無理であった。

 さて、高野秀行さんの『謎のアジア納豆―そして帰ってきた〈日本納豆〉―』を読ませていただいた。多くの日本人は、温かいご飯にかけて食べる美味しい糸引き納豆が日本だけのものと思っているので、いきなりこの本の切り出しが、ミャンマーのカチン州の山奥で白いご飯と納豆と生卵と出合って、著者の高野氏が、完璧なまでの日本の納豆と同じ味だった、なんでこんな異国の山の中で、日本と全く同じ納豆があるのだろうか、夢を見ているようだった、と驚いたところから始まるのは、読者にとって先ず衝撃的であろう。

 この不思議な偶然を心の隅に宿して十四年後の二〇一三年、家族とタイ旅行に行った機会に北部山岳地帯に暮らすシャン族の友人に会って納豆と再会。十四年前の不思議が再び鎌首を擡げ、「アジア納豆」という未知なる食の大陸へと入って行った。さて、ここからが本当に面白い。タイ、ミャンマー、ネパール、インド、中国、ブータンをのべつ幕なしに調査して、多くの少数民族の納豆を食べ歩くが、謎は増すばかり。ついには振り出しに戻ってきて、日本の納豆とアジアの納豆との関係はいかに、とばかりに秋田県、岩手県、長野県その他日本国内を食べまくり、調べまくり、気づいてみれば一体何種類の納豆を食べたのか、自分でいくつの納豆を試作してみたのかも数えきれなくなっていた。その間「疑問。発見。驚き。笑い。煩悶。絶句……この連続である」とある。本当に精力的、実に挑戦的、誠に実践的、類稀なる冒険心と好奇心で、納豆を追うわ、追うわ、追い続けるわ。そして最終的には、アジアの納豆と日本の納豆という「二つの未知なる大陸は、『納豆』という超巨大なブラックホールに吸い込まれていった」というスケールで納豆を捉え、展開しているのである。また、日本の納豆を調べているうちに、「千利休や源義家、蝦夷にたどりついてしまうとは夢にも思わなかった」と述べるあたりは、納豆の原点を追い求める著者の姿から、納豆への愛着や憧れを通して叙情詩的香りも漂ってくるように思えてならない。

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ミャンマーの竹納豆を手にする高野秀行さん

 著者は、著名なノンフィクション作家でもあるので、徹底して現場に足を運び、自らの五感を駆使して、取材重点主義を貫いている。そして、納豆の糸を手繰るようにして、そこに秘められた謎を連鎖的に解き進めていくあたりは、あたかも推理小説の展開をも連想させ、読む者をどんどんと未知なる納豆大陸へと引き込んでいくのである。

 発酵学者という我が輩の立場から見ても、本書には注目すべき箇所が随所に見られる。それは、従来の多くの学者の視点を遥かに越えた総括的観点から納豆の真実に迫っているこ

とで、文化人類学や民俗学、民族学、発酵学、微生物学という、納豆の食文化に関する多くの分野を一絡げにして「納豆」を観ているのである。このような壮大なスケールで納豆の奥に秘める謎を解き明かしていく試みはこれまで全く無く、学問的にも貴重な文献と言って過言ではない。

 また、著者が抱く納豆の謎の解明への執念は、納豆菌のスターター(菌種)が、従来言われてきた稲藁だけでなく朴(ほお)の葉や栃の葉などにも確認されることを実証していることにも見られる。我が輩も以前、同じ実験を行ったのであるが(大半は納豆菌でなく枯草菌)、稲藁を用いなくとも納豆に近いものが出来た経験を持つ。

 我が輩はこれまでの研究から、アジア大陸の納豆と日本の納豆には、伝播とその他を含めて直接の関連はなく、稲と大豆の栽培を同一に持ち、それを煮炊きして食べ、そこに納豆菌の棲息に適した気候風土があれば、納豆は発生するものと考えているが、大切なことは、本書から伝わってくるように、納豆を持つそれぞれの民族が、いかに美味しい納豆をつくり上げるのに知恵と工夫を注ぎ込んできたか、そしてそれが大切な文化として受け継がれてきたかを読者が読み取ることにもあるような気がする。とにかく、納豆の一大浪漫がこの一冊に余りあるほど詰め込まれている。著者の粘り強い取材が「納豆喰(なっとく)」(納得)の一冊を生んだのであろう。

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新潮社 波
2016年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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