恋人に裏切られ居場所さえも失うが――「毎日をきちんと生きる」ことで自分を取り戻す

レビュー

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エミリの小さな包丁

『エミリの小さな包丁』

著者
森沢 明夫 [著]
出版社
KADOKAWA
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784041032084
発売日
2016/04/25
価格
1,728円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

他人を思いやる気持ちを学ぶ

[レビュアー] 吉海裕一(丸善お茶の水店)

 仕事も何もかも投げ出して、どこか誰も知らない遠い場所に逃げ出したい。朝の通勤ラッシュに揉まれながら誰もがきっと一度は考えた事があるだろう。

 出刃包丁という「武器」をショルダーバッグに隠し持つ女が、とある場所へ向かうという、なんとも物騒な書き出しで始まる森沢明夫の新刊『エミリの小さな包丁』。主人公エミリもまた、ある事が原因で都会の生活に疲れ、疎遠だった龍浦という漁師町に住むおじいちゃんのもとへ身一つで転がり込む。

 幼い頃に両親が離婚をして、すでに父親は新しい家族と幸せに暮らしており、昔から男好きな母親には二度と会いたくないエミリは、おじいちゃんしか頼れる親戚がいない。そんな孤独で心が冷えきってしまっている中、二人の共同生活が始まる。カサゴやアジ、カニ、サワラ等、龍浦の海で釣りをして獲った魚を材料に、おじいちゃんと一緒の台所に立ち、料理を作って食事をする事で、まるで溜まっていた毒が心身ともに浄化されていくかのように次第に元気になっていく。本書には食事をするシーンが多いのだが、読んでいるうちに「美味しそう」「私も食べてみたい」「龍浦はなんて良い場所なんだ」と思う以外に、大自然の中で魚やカニを獲り、捌いて料理をする描写に惹かれるだろう。自然のはぐくみを受けて生きているのだと目の当たりにした瞬間、今思い悩んでいる事なんて、上辺だけのほんのちっぽけな事なのだと、読者はおじいちゃんに教えられているかのように感じていく。

 本書のエミリの周りには「幸せになることより、満足することの方が大事だよ」と教えてくれるおじいちゃんの他にも、とある事情を抱えており他人のことなど構っていられない状況にもかかわらず、エミリの過去を知り「過去の失敗に学ばない人間は阿呆だけど、過去の失敗に呪縛されたまま生きている人間はもっと阿呆だよな」と言うほぼ独身の心平や、出会ったばかりのエミリに「今度泊まりに来ない?」と誘い、言葉遣いや服のセンスが抜群な網元のお嬢様で容姿だけでなく性格も美しい京香等、傷ついたエミリの心をあたたかく励ましてくれる人々がいる。そして心平をはじめ、自分も悩みを持つ者ばかりなのだが、みな他人を思いやる気持ちも大切にしながら生きているのである。

 これは小説の世界の事だが、現実の世界においても、きっと誰もが大なり小なり心に傷を持って生きている。森沢明夫の小説の世界では、いつだって傷つき臆病になり、冷えきってしまった心の持ち主の背中に、他の誰かがそっとあたたかい手を差し伸べて一歩前に押し出し、勇気を与えてくれる。読者もまた読み終えた瞬間から一歩前に、いや二歩も三歩も前に進めるような前向きな気持ちになれる。そして時には、一歩下がる勇気も大切なのだとも教えてくれる。まさにこの『エミリの小さな包丁』は、都会の喧騒から離れ自分を見つめなおす時間を作る事で、今まで見過ごしてきた物が見えるようになり、再び前進出来るのだと教えてくれる。

 壁にぶち当たり、どこかに逃げたくなったら、エミリのように素敵なおじいちゃんがいる田舎に逃げる事はなかなか出来ないだろうが、本を開いて読む事は誰にでも簡単に出来る。最近は気持ちに余裕がなく、自分さえ良ければそれでいいと思っている人を街を歩いていても多く見かけるが、そんな人達にはぜひこの『エミリの小さな包丁』を読んで、他人を思いやる気持ちこそが自分がより良く生きていく為に最も重要なのだという事を学んで欲しいと思う。

 最後に、タイトルにもある包丁だが、ネタバレ感が満載になるのであえて詳しくは触れないが、後に読者にとってそれはとんでもない「武器」となる。そして間違いなく読者はその「武器」に泣かされることだろう。

KADOKAWA 本の旅人
2016年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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