『米原万里ベストエッセイI』
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『米原万里ベストエッセイII』
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叶わぬ夢だけど
[レビュアー] 池田清彦(早稲田大学教授)
米原万里が亡くなってはや十年が経つが、どうも実感が湧かない。著書はまだまだ売れ続けており、物書きとしては、とても死んだとは言えないからであろう。私が、米原に最初に会ったのは、多分、読売新聞の読書委員会で、一九九六年か九七年の頃だったと記憶する。その頃の読売の読書委員は、日野啓三、川村二郎の二人の終身委員を筆頭に、二十人。委員会が終わるとパレスホテルで飲み会があり、日野、川村、米原の他に、懇意にしていた養老孟司、高田宏、吉岡忍などの面々とバカ話をして楽しかったのを、昨日のことのように覚えている。この中で、今もしぶとく生きているのは養老、吉岡と僕だけだ。当時の米原は、読売文学賞や講談社エッセイ賞を貰って順風満帆。元気いっぱいで、食欲旺盛で、饒舌で、サービス精神に溢れ、踏んづけても、蹴飛ばしても、死にそうにない風情であった。
米原自身も、まさか五十六歳で鬼籍に入るとは思っていなかったようで、ベストエッセイⅡに収録されている「私の死亡記事」(文春文庫『終生ヒトのオスは飼わず』に初出)では、七十五歳で狂犬病で死んだ想定になっている。これを書いたのは恐らく二〇〇四年で、卵巣がんが発見された(二〇〇三年十月)後のことだ。本人はがんを克服して、まだ二十年くらい生きるつもりだったのであろう。死亡記事の最後に「喪主は養子の無理さんと養女の道理さんが務める」(無理と道理は米原が飼っていたネコの名前)とあるように、ネコ(及びイヌ)が好きで堪らなかったようだ。尤も、無理は一九九八年にネコエイズで死んでいるので、米原がどんな想いで「私の死亡記事」を書いたのかは知らない。
このエッセイ集にも、本当かウソか定かならぬ話が満載で、それがまた魅力でもある。ちょっと五月蝿い文体だが、話の面白さにつられてページを繰っているうちに、五月蝿い文体が好ましいものに思えてくるから不思議だ。ここに収録されているエッセイは多岐にわたり、プラハのロシア語学校時代の思い出から(共産党員の父に連れられて九歳から五年間プラハで過ごした)、ゴルバチョフやエリツィンに可愛がられて同時通訳を務めていた時代の逸話、目に入れても痛くないほど愛していたネコやイヌの話、ネコとイヌの次に好きだったシモネタの話題などが満載で、米原ファンは米原の魅力を再認識するだろうし、初めての読者は米原の他の本を読みたくなるに違いない。
日本とソ連が国交を回復したての頃、ソ連政府が日本に気を使って、イギリス大使館の並びの、最高のロケーションに存在する立派な建物を、大使館として提供したい、との申し出があったという。米原は次のように述べている。「ところが、日本側は候補地の番地を知るなり、即座に迷うことなく断ったと伝えられている。モスクワ市ヤキマンコ通り○○番地」(「人類共通の価値」ベストエッセイⅡ所収)。これに類するシモネタも山ほど載っているので、興味のある人は是非本書を紐解いて欲しい。
さらに、米原には辛辣な時事評論家としての顔もあり、反権力の姿勢は父親譲りで筋金入り、批評眼の鋭さも並ではない。英語公用化のバカバカしさを指摘している「鎖国癖」(ベストエッセイⅡ所収)は、昨今の早期英語教育の不毛さを指摘して見事であるし、「壺算」(ベストエッセイⅠ所収)では、日本は独立国ではなく、アメリカの属国であることを理路整然と述べている。そうかと思えば「卵が先か、鶏が先か」(ベストエッセイⅠ所収)では、ベジタリアンについて次のような皮肉の効いた文章も書いている。「もっと心優しく意志の強い人々はベジタリアンになるのだろう。ヒトラーもベジタリアンだった」。現在の最悪の政治状況を見たら、どんな毒舌を吐くだろうか。叶わぬ夢だけれどね。
◇角川文庫◇