いまからでも遅くない

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ダダダダ菜園記

『ダダダダ菜園記』

著者
伊藤 礼 [著]
出版社
筑摩書房
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784480433527
発売日
2016/04/06
価格
799円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

いまからでも遅くない

[レビュアー] 大崎清夏

 本書は、東京・久我山の自宅の庭に小さな耕作地を拵えた筆者・伊藤礼氏が、その地に野菜を作りながら、一年半にわたって書きとめた成功や失敗やこぼれ話をまとめたものである。であることは、確かなのだけれど、この感じ、なんだろう。読み終えた私は「人生とは、思うようにはいかないものだなぁ……」としんみりし、「生きてる限り、何事も遅いということはないのだなぁ……」とほんのり前向きな気持ちになり、「明日の朝は何を食べよう?」と、ふと気づけばそんな些細なことでワクワクしていたのだった。

 伊藤氏の農事の日々は、研究と発見と反省の日々だ。そしてその研究と発見と反省の対象は、農場の作物だけではない。そこには、彼自身の生態記録が含まれている。彼の農事記録の一行目は「三月二十二日 火曜日 朝食後、コタツで寝る。」である。

 農場主が農事前にコタツで寝た情報は、農事記録にいるかいらないかと言えば、おそらくいらない。しかし、私はこの一行を読んで、それからこれに続く行も読んで、とても納得してしまった。そうかそうだよね、農事記録とはこうあるべきだよねと思った。

 伊藤氏は自分の生態を、農場で起きた出来事と同じように書く。芽キャベツの青虫を撃退したことやクワイの池にメダカを放ったことの合間に、耕耘機を買ってはみたもののしばらく使わなかったことや、東京の西方面の農場を見習おうと出かけた帰りに事故死したらしいチョウゲンボウを見つけて拾ったことなどが記録される。

 もちろん伊藤氏は日々、自分の農場に思いを巡らし、農事に勤しんでいる。ただ、日々の出来事はいつも連続して起こるから、出来事のどこまでが農事でどこからが農事でないのかなんて、わからない。一見関係なさそうな、ほんのちょっとしたことが、今年のトマトの出来不出来に決定的に関わっているということもあるのが、農事というものだ。となれば、この菜園記に書かれていることに、ひとつとして無駄はないはずなのだ。

 伊藤氏曰く、農場運営に際して真剣かつ勤勉になる場合、大事なことは「怠けずに記録をつけること」だという。そしてもし農場主の生態把握が農場運営に含まれるのならば(含まれないわけがない、という結論に私は達したのだけれど)伊藤氏の真剣さ勤勉さは、すごい。

 たとえば一月、彼は寝床で目を覚まし、目を開いて閉じ、また開いてうす暗闇の中で壁を見たことについて、十数行を費やす。その後、寝床に横たわったままシビンで用を足したことに至っては、数十行を費やしている。老いゆく自分と、芽を出して育ったり育たなかったりする作物とは、伊藤氏の目を通して見れば、同じ地面の上に暮らす生きもの同士だ。だからシビンのことだってもはや立派な農事記録として読めるのだけれど、伊藤氏は律儀にも常に戻るべき本筋のことを意識していて、それはやはり育てている野菜の生育具合である。彼は書く、「いまからでも遅くない。本筋に戻ろう。」

 文章を書く人間の多くは、自分の筆が脇道に逸れたことに気づいたら、大抵は逸れた箇所をカットしてしまうだろう――そうすれば無駄のない端正な良い作物がなると信じて。しかし伊藤氏はそうしない。脇道に逸れたときは逸れたときとして、その道をじっくり観察する。自分の選んだ道には、最後まで責任をもつ。その道が終わり、では行くはずだった場所に行ってみようと決めたときには、ちゃんと逸れた地点まで戻る。戻ることだって進むことだ。作物は無骨な形になるかもしれない。思い通りには進めない。でもそれこそが、記録の醍醐味だ。

 本筋も脇道も、出来のいい作物も出来の悪い作物も、それが私の今日だったと朗らかに振り返って、明日はまた「まだ遅くない」と新しいことを始める。齢八十の伊藤氏に倣って、そんなふうに真剣に生きることができたら、最高だ。

ちくま
2016年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

筑摩書房

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