なぜ「悪」を取り込む必要があるのか

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世界地図の中で考える

『世界地図の中で考える』

著者
高坂 正堯 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
社会科学/政治-含む国防軍事
ISBN
9784106037894
発売日
2016/05/27
価格
1,512円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

なぜ「悪」を取り込む必要があるのか

[レビュアー] 細谷雄一(慶應義塾大学教授)

 高坂正堯元京都大学教授がその設立に深く関わったサントリー文化財団が刊行する雑誌『アステイオン』。「追悼・高坂正堯氏」と銘打った一九九六年の第四二号では、北岡伸一立教大学教授(当時、以下同)、坂元一哉大阪大学助教授、そして中西寛京都大学助教授が、座談会で高坂の巨大な足跡とその功績を回顧している。坂元と中西は高坂の門下生であり、北岡も高坂とは政治的立場が近い位置にいた。

 その座談会の末尾で、「最後に、後学のため、先生のご本でお勧めのものを紹介して終わりにしましょう」と、北岡教授が述べている。数々の名著を残した高坂の著作の中で、北岡教授と坂元助教授がそろって、新潮選書から高坂が一九六八年に刊行した『世界地図の中で考える』をあげているのは興味深い。一九六〇年代後半は、政治学者高坂にとって、人生で最も豊穣な成果を生み出した時期であった。一九六六年の『国際政治』、そして一九六八年の『宰相吉田茂』は高坂の評価を決定的なものとし、現在でも広く読まれ続ける国際政治学の古典的名著である。

『国際政治』と『宰相吉田茂』というこの二つの著作では、政治学者として明確な主張を展開しているのに対して、同じ時期に書かれた『世界地図の中で考える』は対照的な印象を読者に与える。それもそのはずで、「あとがき」のなかで高坂は、「私はこの書物で、かなり自由な書き方をした」と断り書きをしている。というのも、「私が旅行で見、感じ、そして考えたこと、旅行から考えて本を読み、論じ合ったことを、そのまま書く方がよいと思った」からだ。そのような肩の力が抜けた自由奔放な思考と記述が、本書の魅力をよりいっそう大きなものとしている。

 それでは、この著書にはどのようなことが書かれているのか。まず高坂は本書の叙述を、自らのタスマニアでの滞在についてから始める。高坂がタスマニアに関心を持ったのは、自らが子供の時代に知った、タスマニア島原住民の滅亡の理由への知的好奇心がきっかけであった。なぜタスマニア人は、滅びなければならなかったのか。

 それを調べていくうちに、高坂は興味深い事実に突き当たる。すなわち、「タスマニア土人(ママ)を滅亡させる上でもっとも効果があったのは、イギリス人の鉄砲でも大砲でもなかった。皮肉なことに、そうした文明の利器よりも、イギリス人が彼らの身体のなかに携えて来た微生物が、はるかに有効だったのである。」というのも、タスマニア島の原住民は、外部との接触がなかったために、このような細菌への免疫がなかったのだ。

 たとえ細菌が悪であったとしても、その「悪」を体内に取り込むことでむしろ免疫を高めて、われわれはより強くなれる。高坂は語る。「ごく簡単に言えば、より多くの種類の病原菌を体内に持っている人間がより多くの病気に耐えうるのである。」高坂は、社会のなかからひとつずつ悪を摘まみ取って排除するよりも、その悪を内側に取り込み強くなる必要に目を向ける。これこそが高坂の文明論の真骨頂である。政治の世界でも、権力、軍事力、戦争、帝国主義、独裁といった、数々の悪徳が見られる。そして、それらの悪徳を排除することを政治の目的に掲げる理想主義者はあとを絶たない。しかし、そのような悪をむしろ内側に取り込むことで免疫を高め、われわれはより強くなれるのだ。

 高坂が社会に求めるのは、均衡である。「社会のなかには、さまざまな要因が微妙な釣り合いを保っている。人びとはそのなかのあるものを善とし、あるものを悪とするけれども、その相互の関係は複雑に入り組んでいて、どれが善であり、どれが悪であるかを言うことが難かしいのが真実なのである。」「あとがき」でもまた、次のように書いている。「実際には、文明そのものが光の面と闇の面を持っている。そしてその二つは離れ難く結びついているのである。」そのような高坂の文明論は本書の全体に貫かれ、そのような視座からアメリカ、イギリス、フランス、日本の文明を自由に描き、その光と闇に目を向ける。

 なんと成熟した思考だろうか。戦後の日本社会はあまりにも稚拙に、「光の面」に執着し「闇の面」を否定することに懸命となってきた。われわれに必要なのは、そのような社会の「闇の面」あるいは「悪徳」を、人間社会が生み出す不可欠な全体の一部として捉えて、その均衡を生み出すことではないか。高坂の古典的な文明論を読むことで、読者は見失いがちな価値のある視点を得ることができるのであろう。

新潮社 波
2016年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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