パキスタンの“人食い山”へ 誰も成し遂げていない冬季初登頂に挑む
[レビュアー] 杉江松恋(書評家)
宇宙にいちばん近い場所まで自分の手と足で登っていく。
その行為について書かれた小説だ。笹本稜平『大岩壁』である。作家生活の初期から山岳小説の名手として名を馳せていた作者が今回題材とするのは標高八一二六メートル、世界第九位に数えられるパキスタンの高峰、ナンガ・パルバットだ。エベレストやK2には知名度の点で劣るが、多数の挑戦者の命を奪った人食い山として登山家からは畏怖を集めており、現在もなお冬季登攀に成功したパーティーは不在なのだ。
四十八歳の立原祐二は、かつてこの山の冬季初登頂に挑んだことがある。しかし苛烈な気象条件に阻まれて山頂近くで立往生し、撤退を決行するも事故によって仲間の一人を死なせてしまった。己の判断ミスのせいではないかという悔恨は彼の心から去ることはなかったのである。
それから五年の歳月が経ち、ついに再挑戦の機会が巡ってきた。前回のパートナーである木塚隆と共に立原は準備を進める。そんなある日、彼の携帯電話に、未知の番号からの着信が入った。立原がナンガ・パルバットで死なせてしまった男、倉本俊樹の弟・晴彦が連絡を取ってきたのである。兄の弔い合戦として人食い山に登らせてほしいという晴彦の熱意に押し切られ、三人でパーティーを組むことを立原は決意する。しかし不安材料もあった。晴彦は独善的に過ぎる性格の主で、所属する大学の山岳部でも孤立していたのだ。
彼らを邪魔する事態が絶えず起こり、そのたびに立原たちは翻弄されることになるのだ。だが、一旦ナンガ・パルバットに登り始めてしまえば、それも些事に過ぎなくなる。一歩間違えば死が待っている高所登山では、向きあうべき最大の敵は自分自身だからだ。生きる理由を求めるという行為そのものが、自分が山に登る理由でもある、と立原は呟く。人の小さな身体に巨大な生命が宿ることに、私は嘆息させられた。