結末の予測できないSFミステリ クライマックスの大花火に刮目(かつもく)せよ

レビュー

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失われた過去と未来の犯罪

『失われた過去と未来の犯罪』

著者
小林, 泰三, 1962-2020
出版社
KADOKAWA
ISBN
9784041034699
価格
1,760円(税込)

書籍情報:openBD

結末の予測できないSFミステリ クライマックスの大花火に刮目(かつもく)せよ

[レビュアー] 杉江松恋(書評家)

 小林泰三の小説は、夏の空に咲く打ち上げ花火のようだ。

 導入部は玉がひゅるひゅると飛んでいく打ち上げ途中と同じで、宙天を極彩色の花畑が埋め尽くすことになる数瞬後の景色をその時点ではまったく予想できない。花火が観客に見せてくれるものは人間の技術が作りうる美景の極致であるが、小林作品も想像を遥かに超えた領域に読者を連れ去ってくれる。あまりに遠ざかりすぎるのでぽかんと口を開けて眺めているしかなく、読み終えた後で初めて「今のはなんだ、凄かったな」と呟くことができるのみなのである。花火との違いは、温度ぐらいだろうか。もっと、ひんやりしている。

 新作『失われた過去と未来の犯罪』は、その小林泰三大花火が堪能できる長編だ。ドンと鳴って花開いた後の奇観も素晴らしく、口の開けすぎで顎が痛くなる。題名が暗示するとおり本書は二部構成になっており、本当の大花火は後半に仕掛けられているのだが、「失われた過去」を描く前半を紹介するだけでもその雰囲気は伝わるはずだ。

 話は唐突に始まる。十七歳の結城梨乃が、自分で書いた覚えのない文章がパソコンに表示されていることに気づくのである。それが十時。三十分後の彼女もまた、知らない文章を発見して驚愕する。以下はその繰り返し。いったんは多重人格の存在を疑う梨乃だったが、脳が記憶を短期しか保持できなくなった結果なのだと理解するようになる。しかもそれは自分だけに起きた現象ではなく、ネットを見る限りでは大量に同じ症状を発した人間がいるようなのだ。思い込みが激しく「呆けてしまった」と嘆く母親の美咲を励ましながら、梨乃はこの事態に立ち向かおうとする。

 この母娘の奮闘と並行して描かれるのが、とある原子力発電所職員たちの物語だ。梨乃と同じような瞬間を、二人の職員が烏賊を拾いながら迎える。原子炉の冷却用に海水を取り入れる箇所にある防止網には烏賊や蛸などがよく掛かるので、職員たちの余禄になるのである。しかし漁をしている場合ではない。制御のための操作を間違えば原子炉は危険な状態になってしまうからだ。記憶が途切れる前に自分たちが何をしていたか思い出せなくなったために彼らは右往左往し、メルトダウンの危険がどんどん高まっていく。

 コントの台本にすれば「お母さんと娘」「原子力発電所の一日」とでも題名がつけられそうな二つのドラマが交互に進行していく。後者は実際の原発事故を連想させる不吉な内容だが、小林の乾いた筆致は読者の哄笑を引き出すはずだ。全体をコント仕立てにしているのは作者の戦略で、登場人物と読者の間に舞台上の役者と観客のような距離を生み出すためだ。第二部に入ってもこの戦略は維持され、読者の目の前で次々に寸劇が演じられることになる。梨乃や原子力発電所の職員たちが直面した事態は深刻なもので、人類全体のあり方がそれによってがらりと変わってしまうことになる。その後の世界がいかに現在のそれとは違うか、社会構造や人間の精神のありようがどのように変化したかということが、俯瞰ではなく、芝居の観客のような視線の位置で綴られることになる。にもかかわらずじわじわと世界全体が見えてくる。世界が登場人物に凝縮されているのだ。

 端的に言えば、第二部では心的現象について書かれている。心とは何か、ということだ。書きようによっては難解になりそうな題材だが、滑稽な図画として絵解きされており、読者が踏み誤ることはない。幹もしっかりしているが、やはり莫大な量のアイデアを投下しているのが補強材として効を奏しているのだろう。コントの集合体が最終的には一つの大きな物語を結実させるのである。そのさまはまるで花火大会のクライマックスだ。ドンドコドコドコ大小花火の乱れ打ち。美しい情景を描き出して小説は終わる。

KADOKAWA 本の旅人
2016年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

KADOKAWA

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