“わかっちゃいるけど”、強迫性障害――松居沙夜『恋から始まったビョーキ: 私は強迫性障害です』

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恋から始まったビョーキ

『恋から始まったビョーキ』

著者
松居 沙夜 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103501114
発売日
2016/06/22
価格
1,512円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

“わかっちゃいるけど”、強迫性障害――松居沙夜『恋から始まったビョーキ: 私は強迫性障害です』

[レビュアー] 最相葉月(ノンフィクション・ライター)

 私は読書中に髪をいじる。肩が凝るとわかっているのにやめられない。見た目もあまりよくないだろう。

 少し想像を進めてみる。もし四六時中、髪をいじらずにいられなくなったら、どうするか。食事中も入浴中も電車に乗っている時も。会食中なら相手に不快な思いをさせるだろう。映画館なら後部座席の人に注意されるはずだ。そのうち毛が抜け、はげ、炎症を起こすかもしれない。バカげているのはわかっている。でもやめられない。苦しい。もはや日常生活に支障が出るレベルとなった時、医学ではこれを「障害」と呼ぶ。“わかっちゃいるけどやめられない症候群”といわれる精神疾患、強迫性障害だ。何度手を洗っても雑菌がついてるのではないかと不安で洗うのをやめられないとか、玄関の鍵を閉めたかどうか不安で何度も戻って確認してしまうなどの症状なら聞いたことがあるという人は多いのではないか。

 本書は強迫性障害の当事者によるエッセイ集である。正直、私はなめていた。これは生き地獄だ。鬼は自分の中に棲んでいる。まず冒頭の一編「墓石を轢(ひ)いた」に後ずさりした。夫を車で送った帰り道、著者は道路に散乱していた石を轢いてしまう。墓石だと直感した途端、脳のブレーキがかからなくなる。罰当たりなことをしたと思い、自宅の神棚で何度も何度も墓石の主に謝罪する。自分の中だけに留めておけず母親に相談する。ところが母親は墓石が落ちてるなんてあるかしら、でも世の中いろんなものが落ちてるでしょうからねえ、と適当に受け流す。著者はキレる。「だから! 墓石だったらどうしようって不安だから、ここに来てママに聞いてんの! そんなもの、そうそう落ちてるわけないんだから、それは墓石じゃなかったのよって言えばいいじゃないの! 余計なことつべこべ言ってないで、墓石なんか絶対落ちてるわけないんだって言ってよ!」。墓石かどうかはっきりさせないとお祓(はら)いを続けなければならない。どっちでもいいという母親が許せないのである。

 著者の言動にもっとも影響を受け、被害をこうむるのが恋人たちだ。デートの最中、若い女性とすれ違うたびに今の女を見てたでしょと責める。「見てないよ」「他の子なんて見るわけないんだよ」。彼がどう答えても納得しない。どうせ私は醜いと自分を責める。彼と離れている時は不安が高じ、電車や公衆トイレで彼の言葉を繰り返す。「他の子なんて見るわけないんだよ」「他の子に興味持つわけないんだよ」。一回では心もとない。二回だときりが良すぎる。予備で三回。三の倍数、呪文のように繰り返し、最後にもうこれで最後だと区切りをつけるため、壁を拳でドンと叩く。

 社内恋愛はさらに深刻だ。彼が女性社員と話しているだけで不安になる。「僕はサヤ以外の女に興味ない」と言質(げんち)を取り、三の倍数繰り返す。前髪がセクシーに見えるといって坊主頭にさせられた男、体毛を剃られた男もいる。これはたまらん! と男が逃げていくかと思いきや、不思議なことに別れを切り出すのはいつも著者のほうで、男はむしろすがりつく。おそらく強迫性障害の困難はここにある。助けてほしい人と、この人を助けられるのは自分しかいないと思う人。両者の共依存関係がうまくいくうちは問題ないが、妄想が膨らんで苦しくなると、依存できる人をほかに見つけるという悪循環。これでは治りようがないではないか。

 自分で問題を尖らせて他人を巻き込み、自分も苦しむ。これでもか、これでもかと家族や恋人を傷つける。よくぞこんな恐ろしく、偏見をもたれかねない体験を白日の下にさらしてくれたものだ。著者の勇気を讃えたい。白なの黒なの、どっちなの、と問い詰めるような不気味な筆力も相まって、読書中の私は髪をいじりながら沈鬱な目をしていただろう。どっちでもいいじゃん! といえるのはなんと健康なことか。

 著者は認知行動療法を受け、快方に向かっている。不安をなくすのではなく、不安はあって当たり前の状態に慣れることを段階的に訓練する心理療法だ。医師のアドバイスだけでなく、著者の要求に応じない母親や毅然とした態度をとる夫の姿は同じ症状に苦しむ人や家族の参考になるだろう。ただ医師が何をいおうが、内なる鬼を退治できるのは本人しかいない。孤独な戦いに挑む人の手に本書が届けばいいと思う。

新潮社 波
2016年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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