ポーランド語を口にしなくなった祖父…言語とアイデンティティの断絶

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ポーランドのボクサー

『ポーランドのボクサー』

著者
エドゥアルド・ハルフォン [著]/松本 健二 [訳]
出版社
白水社
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784560090459
発売日
2016/05/27
価格
2,860円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

ポーランド語を口にしなくなった祖父…言語とアイデンティティの断絶

[レビュアー] 鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

 小説とは、「時間とともに自由に生成変化するテクスト」と、ハルフォンはみなしており、本書も、短編集「ポーランドのボクサー」と緩やかにつながる中編二編を合わせ、独自にシャッフルした、オリジナル版として刊行された。

 グアテマラのユダヤ系一家に生まれ、スペイン語を母語としつつ、イディッシュやアラビア語にも通じ、十歳で渡米し教育を受けたハルフォンは、言語とアイデンティティの癒しがたい断裂を抱えている。それは作中人物たちも同様だ。表題作で、自分を裏切ったポーランドの言語を二度と口にしなくなった語り手の祖父。しかしアウシュヴィッツで隣りあったボクサーが、翌日の裁判でどのように答弁すべきか教えてくれ、祖父はそのポーランド語によって苦い命拾いをする。

「彼方の」という編は、話の通じないグアテマラの学生相手に奮闘する教授が、ポー、モーパッサン、チェーホフ、ジョイス、ヘミングウェイなどを読ませる場面を描きつつ、これらの作家の手法や作風を織りこむという業をしてのけるのが心憎い。また、「トウェインしながら」でも、米国ダーラムの学会に出かけた教授は、自分をガリヴァーか、「不思議の異邦の国のアリス」のような異物と感じる。「エピストロフィー」と「ピルエット」に出てくるセルビア人とジプシーの血を引くピアニストも、作者の分身だろう。ショパンなどの曲目が並ぶ演奏会で、突如、誰も知らないリストの曲(おそらく彼の即興)を弾きだし、音楽には、技術上にもジャンルにも境界はないと言い募る。

 語り手は多くがエドゥアルド・ハルフォンを名乗る。これは作者自身か? フィクションと自伝の境を自在に往来して書くJ・M・クッツェーや、サラエボ出身のアレクサンダル・へモンといった言語越境の書き手を強く想起させる。彼もまた、虚実のはざまに広がる無標地帯の住人なのだろう。

新潮社 週刊新潮
2016年6月30日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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