奴隷に落ち、石ころ同然の存在にされた男

レビュー

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ささやかな手記

『ささやかな手記』

著者
サンドリーヌ・コレット [著]/加藤 かおり [訳]
出版社
早川書房
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784150019082
発売日
2016/06/09
価格
1,728円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

奴隷に落ち、石ころ同然の存在にされた男

[レビュアー] 杉江松恋(書評家)

 真の恐怖は静かに語られる。

 サンドリーヌ・コレット『ささやかな手記』は、一人の男が陥った悪夢のような境遇を綴った小説だ。題名が示すとおり、手記として綴られた文章を元に再構成したという体の小説であり、〈俺〉ことテオフィル(テオ)・ベランジェが語り手を務める。自分の妻に手を出した兄を暴行し、投獄された人物だ。その彼が出所する場面から物語は始まるのである。

 人里離れた地で民宿を見つけたテオは、そこを拠点として散策に耽るという日々を送り始める。ある日の山歩きで廃屋じみた建物を見つけた彼は、突然の襲撃を受けて意識を失う。気がついたとき、テオは暗い部屋で鎖につながれていた。そこにいた先住者・リュックによれば、彼が捕えられたのは、奴隷として働かされるためだという。その言葉に偽りはなく、家の主であるバジルとジョシュアの老兄弟によって、テオは地獄のような思いを味わわされることになる。苦役だけではなく、容赦なく打擲(ちょうちゃく)を加えられるという家畜以下の境遇だ。テオの身体は衰弱し、精神も暗い淀みに沈んでいく。

 極限の状態に突き落とされた者がそこから脱出できるか、という点に的を絞った物語作りであり、読者はテオと同化してスリルを共有することになる。活劇小説のように起伏に富んだ筋立てこそないが、退屈することだけは絶対にないはずだ。心が麻痺して石ころ同然の存在になっていくのを追体験するという、またとない読書体験が待っているからである。残酷な虐待を描くことによって人間の尊厳とは何かを逆説的に浮き彫りにする小説でもある。

 コレットはこれがデビュー作であり、有望な新人に贈られるフランス推理小説大賞とミステリー小説普及のために設立された813賞を刊行した二〇一三年以降に受賞している。かの国には心理サスペンスの伝統がある。心の痛みを描く名手が、また一人登場したのだ。

新潮社 週刊新潮
2016年6月30日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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