日米交渉を再現する圧巻のノンフィクション

レビュー

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亡国の密約

『亡国の密約』

著者
山田 優 [著]/石井 勇人 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、評論、随筆、その他
ISBN
9784103342526
発売日
2016/06/24
価格
1,620円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

日米交渉を再現する圧巻のノンフィクション

[レビュアー] 御厨貴(東京大学先端科学技術研究センター客員教授)

 今、世間の耳目を集めているTPP交渉の問題点を考察しながら、二十年前のウルグアイラウンド交渉に光をあて、両者の比較検討の中に、例外のない関税撤廃という理想が形骸化し、多くの例外事項が盛り込まれた様を明らかにするのが、本書の執筆の意図である。二人の著者は、コメの高率関税が維持され、国による管理貿易の維持強化がなされた今回のTPP交渉を告発する。

 そしてコメをめぐる通商交渉の原型としてのウルグアイラウンド交渉の実態に迫り、その秘密のベールを一枚また一枚とはがしていく。“秘密交渉”の存在自体を今なお政府は公式には否定している。しかし“密約”の存在は、農政の当事者の間では公然の事実として語られている。著者たちは、多くの関係者への取材や、極秘資料へのアクセスを通じて、コメをめぐるウルグアイラウンドの“秘密交渉”を、現場の雰囲気をただよわせつつストーリー化していく。もちろん日米の公文書に正式に公開請求をかけながら、特に日本の場合は今なお公開されぬ現況をも明らかにしている。

 その中に懐しい名前を久しぶりに見出した。ウルグアイラウンドのコメ交渉のまさに中心人物であった、元農水審議官の塩飽二郎がその人である。一九九三年に行われた塩飽二郎と、アメリカ農務省のジョー・オメーラ特別交渉官との両国の実務代表による交渉のプロセスが再現されていくのは、すばらしい。今を去ること十五年前、オーラル・ヒストリープロジェクトを引っ下げて、政界・官界の重要人物にアタックしていた私は、後藤田正晴、宮澤喜一といった有名政治家の中にあって、農水省国際派の稀有な存在としての実務官僚、塩飽二郎の存在に注目をした。突然の私の申し出に、意外にも塩飽はすぐさま応じてくれた。膨大な資料を抱えた塩飽のオフィスを訪れたことを思い出す。塩飽はコメ交渉のオモテ・ウラをいずれは公開せねばならぬとの信念の持ち主であった。しかしそれを二一世紀初頭にしてよいのかどうか、毎回のオーラル・ヒストリーの現場で、塩飽は行きつ戻りつした。速記録にも多くの手が加えられた。

 その結果、二〇〇六年『塩飽二郎オーラル・ヒストリー』が難産の末、東京大学先端科学技術研究センターの報告書として、研究者の用に供された。今、本書を読み解くと、塩飽とオメーラという二人のコメ交渉の主役が、相見(まみ)えるスイスなどの舞台を含め、その経過が、既視感のように浮かび上がってくる。そうだったなとうなずく箇所もあれば、このプロセスも遂に明らかにされたのかと驚く箇所もあり、おやこれは知らなかったぞと、時が進むにつれてようやく日の目を見たものも多い。

 何よりも本書の圧巻は、塩飽二郎という交渉の立役者に、時によりそい、時につき放しながら、コメ交渉の現場を描きノンフィクションとしての面白さを追求している点にある。だからそのディテールの描写に注目したいのだ。暗礁(あんしょう)に乗り上げる交渉の中で、オメーラのふとした言葉の端から塩飽がアメリカの変化のサインを読みとっていくプロセスは中でも秀逸だ。そして時代性を感じさせるのは、東京と交渉の現場たるスイスなどとをつなぐのが、FAXだということ。今ではもうFAXを使っての情報交換なんて考えられぬ。メールその他の通信手段にとっくにとって代わっているからだ。でもカチャカチャと音をたてつつ、少しずつ印字されるFAXをじりじりしながら眺めている当事者の表情を想像するだに妙にリアリティがあるではないか。

 とまれ一九九〇年代の半ば、日米のコメ交渉が、二人の実務官僚の相互信頼の上に展開されていく様は、日米交渉の一つの類型を示しているとさえ言える。しかも交渉中に、宮澤自民党政権から細川非自民連立政権への突然の政権交代がおきる。しかし農水官僚たちはこの事態に少しも驚くことなく、ごく当然のようにまずは自民党の「四人組」へのネマワシを進め、次いで細川首相、畑農水相へ了承をとるという経緯を辿る。そうか、“日米交渉”は“日日交渉”なのだと悟る時、コメ交渉の大変さが分かってくる。

新潮社 波
2016年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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