取り換え可能な我々の、取り換え不能な恋愛

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我々の恋愛

『我々の恋愛』

著者
いとう せいこう [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784062199896
発売日
2016/03/10
価格
2,090円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

取り換え可能な我々の、取り換え不能な恋愛

[レビュアー] 上田岳弘

 幼い頃は、出くわすもの全てに何か大切な意味があると考えていた。ここでまたこのおばちゃんに会ったから、友達が僕の思ってることを先に言ったから、何かを隠しているような雲が浮かんでいるから。身の回りで起きることがいちいち、前にあったことやこれから起きることの啓示になっていた。それがいつからか、全てが繰り返しの味気ない現象だと考えるようになる。経験を積むうち、僕の身中にそれが澱みたいに積み重なってきたのだ。

 さらには自分自身の経験を通じて、別の誰かにも似たようなことが起こっていると認識するようになる。他の誰かが、僕に起きたこれと全く同じことを経験している。彼や彼女はその経験、インプットを元に、何らかの考えを持ったり感情を覚えたりし、あるいは行動する。その言動の因果が、映画や小説に写し取られることもあるだろう。誰かの内面に生じた葛藤や感動を詳らかに表すことができたとしたら、それらを類型化することにもなる。人間の精神が示す反応の、種々のパターンとみなすことができる。つまりとても客観的に見れば、単にインプットがあってアウトプットがある。受容体となるのは僕やあなた、彼や彼女などの、知的活動をする誰でもありうる。現時点では僕はあなたではなくあなたも別の誰かではないし、一つの個体に全ての刺激を与えてみることもできないから、それぞれが固有の生を送るということになっている。だが、例えば僕だって、この半生に起きたことやそれに対する僕の感じ方が絶対的に特有なものだとは、どうにも思えない。時間軸を無限にとれば、僕やあなた、あの人でなくとも、いつか同様のインプットに同様のアウトプットを返すのではないか。

 いとうせいこうさんは今作において、「恋愛学」を研究する研究者たちのレポートという体裁を取り、「二十世紀最高の恋愛」を描く。複数の研究者が、時に恋愛の主役である華島徹と遠野美和の内側に入り込み一人称で、あるいは本人らや関係する人々のことを外側から三人称で、小説や日記のようにして描く。だから視点は定まらない。僕=華島徹として語りながら、記述する研究者の客観的な語りも同時に入る。普段は排他的にしか描き得ないはずの自他の心理描写が、作中ではまろやかに溶け合っている。

 そんな奇妙な語りを用い、まるで神話的に遠い過去の恋の話を愛でるかのように、追体験される「我々の恋愛」。極めて個人的なはずの恋愛を、「我々」は隅々まで共有することを許される。そして偶然に繋がった、いや繋がってすらいない電話に始まる、細い細い巡り合わせと、たどたどしさに満ちた恋愛を、研究者たちは祈るような目線で記録する。二人が生涯結ばれることを願ってではない。「恋愛」という現象が成立して欲しいという、そんな中庸な祈りだ。

 かつてテレビがもっと影響力を持っていた頃、二十一世紀初頭までのことだが、僕はよくテレビを見ていた。二回目の世界大戦後、急速に合理化されていく日本社会のシステムへ突っ込むことで形成されるお笑いを中心としたテレビ芸術は、ポストモダンを最もよく体現しているものだった。僕も夢中になった。放置しておけば個人に犠牲を強いる社会システムへの、それは軽やかな反逆だった。多くのスターが登場して役割を担った。タモリ、ビートたけし、ダウンタウン、etc。形式張ったもの、大衆を服従させるもの、それらと彼らはよく戦った。それによって社会はより自由になり、弛緩したとも言える。そうする内に戦うべき対象まで所々弛んできて、その上世界のイデオロギーは、既存の社会や民衆に対応できるペースを超えて変化している。そのために我々は今、崩れかけたシステムのただ中に立っていて、ねじ曲がったりはみ出たりした部品を組み合わせてなんとかやっていかなければならない。部品と部品を組み合わせ、「果たしてこれは使えるのか?」といちいち首を傾げながら、現実に対処していく。そんな手探り感を覚えている昨今、ふと僕は、いとうさんが、「虎の門」という番組で時折首を傾げていた仕草を思い出していた。毎回のゲストが司会者を務めるあの番組は、徐々にテレビへの興味を失っていた僕が、それでも見ていた数少ない番組の一つだった。伝説的なコーナー「しりとり竜王戦」で審査員を務めるいとうさんは、制約付きでおかしみを競う言葉遊びで、おかしみが成り立っているのかどうか、首を傾げながら考えていた。

 本作「我々の恋愛」において、作者は「恋愛」と「人生」を重ね合わせる。恋愛が上手くいくのなら、人生もまた成立するのではないか。しかし人生が成り立たないとは、どういうことだろう? 短絡的には、それは「我々」が人間ではなくなるということだ。恋愛を観察する研究家たちの、恋愛詩人の、作者の、そして読み進める読者も虜になるこの恋愛成就への思いは、そうはなりたくないという祈りなのかもしれない。経験を蓄積し、精神的にも地理的にも未踏の地が無くなってきた我々人類。新たなを開きつつある、我々人間。そんな実感と逆行するかのように、華島徹は恋の盲目に陥る。本作を貫く「蚕のイメージ」が効いている。よりか弱く、より不自由に、より盲目に進化を遂げた小さな虫は、美しい糸を吐く。

 もしかしたら我々もまた、野生だったはずの蚕のように、かつてはもっと強く、もっと自由で、もっとよく見える眼をもっていたのかもしれない。他人の考えや経験なんかも、自然に共有することができていたのかもしれない。もしかしたら我々もまた、蚕と同じように、盲目になるべく進化してきたのかもしれない。これからも新たな時代へ向かうということは、進化ではなく、大幅な退化なのかもしれない。我々は、本当は、自分と誰かや、あなたと誰かや、彼と誰かや、彼女と誰かが「取り換え可能である」などと実感する必要なんてないのかもしれない。自分に起きたことは特別なのだ、という感触を捨てる必要などあるだろうか。

 ――だけど我々は、実感してしまうのだ。自分は決して特別ではないし、自分がいなくても世界は回り、同様のアウトプットを出す者が現れるだろう。だからこそ切実に、我々は求め続ける。

 本作が描き上げるのは、「取り換え可能な我々の、取り換え不能な恋愛」を求める、引き割かれた何者かの自我だ。

新潮社 新潮
2016年6月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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